表2-30 戸長・副戸長・町用掛月給及職務表
旧職名 | 職名 | 月給 | 人数 | 担当区及 費用負担 | 職務 |
大年寄 | 戸長 | 15円 | 3人 | 大区1人 当分ノ内 官費 | 官下ノ命令ヲ人民へ伝正、下惰ヲ官 ニ通ジ、其他百般ノ民事二関渉候義取扱 |
中年寄 | 副戸長 | 10円 | 6人 | 大区2人 当分ノ内 官費 | 戸長二随従シ、戸長ノ闕漏ヲ補シ、 且駅役人馬等ヲ取扱 |
町代 | 町用掛 | 5円 | 15人 | 大区5人 町費 | 其区画百般ノ町用ヲ取扱、聴訴・断 獄等ノ原人へ差添 |
在方
職名 | 年給及費用負担等 | 職務 |
名主 年寄・百姓代 | 年給ノ義ハ其村二寄宛行候処ニハ候得共、多分ハ無給ニテ相勤居 | 御収納其外拝借米金取立方井諸御布告諭方共何事二寄ラズ取扱 |
明治6年「東京札幌福山諸県往復留」道文蔵より作成
注 在方役人は明治6年5月7日に名称改正が行われ、名主は副戸長となり、年寄・百姓代は村用掛となる。
以上はまったく函館市街でのことで、在方については別項が立てられている通り、無給の在方役人が諸事を担当していたのである。市在役人の月給等は土地土地で区々のままという状態であった。そこで、開拓使は明治7年5月23日に第6号達書「区戸長月俸規則」を出して全道統一的な整理を行った。これは区長戸長の待遇が全国的に問題となって、使府県あてに出された7年3月8日の太政官達書第28号を受けて行われた整理である。太政官は、明治6年12月使府県に出した第400号達書で「区長、戸長、士族の身分について種々の等級を設け、等内外の官吏に准じた取扱いを行っている向きがあるが、一般人民と同様に取扱うよう」(「太政官日誌」『維新日誌』)にと官吏に准級することを否定したが、翌7年3月の第28号達書で、区長、戸長の身分については官吏に准級するよう改めたのである。
使府県
区戸長身分取扱ノ義明治六年第四百号ヲ以相達候処、自今官吏ニ準候条、追テ一定ノ規則相立候迄区長副区長ハ十二等ヨリ十五等迄、戸長副戸長ハ等外一等ヨリ六等迄、各地方適宜ニ相定、俸給ノ義ハ大蔵省壬申第百六十四号布達ノ通可心得、此旨相達候事
明治七年三月八日 (「太政官日誌」『維新日誌』)
表2-31 区戸長月俸表
職 | 准等 | 月俸 |
区長 〃 区長 〃 戸長 〃 副戸長 〃 総代 副総代 | 12等 13等 14等 15等 等外1等 等外2等 等外3等 等外4等 無 無 | 25円 20円 15円 12円 10円 8円 7円 6円 5円 3円 |
『布類』下より
この内「俸給ノ義ハ大蔵省壬申第百六十四号布達ノ通」というのは、区戸長の月給は民費対応ということであるが、開拓使は、区戸長の准級はこの第28号達書に準拠したが、月給の民費対応については「区戸長ノ月俸ハ民費弁給ノ儀一般ノ成規ニ候処、府県同一ニ施行難相成地方ニ付、当分ノ内従来ノ通官費ニ可取斗」との但書を付けて、「区戸長月俸規則」と総代の月給を定めている。これを表にすると表2-31となる。なお、その後准級ということに対する考え方を問われた開拓使は、身分取扱方を決めたもので、一定の規則は無く、官吏に列するものではないとの見解を示している(「開公」5837)。
函館では戸長の月給が15円、副戸長が10円であったのが、この規則によると減給ということになり、明治8年12月8日に第2大区戸長に任命された井口嘉八郎は、月給10円の辞令をもらっている。ただしそれ以前から継続して戸長および副戸長の職にあった者がこの時点から減給措置を受けたか否かは不明である。また、11年7月26日に副戸長を廃止して1、2等戸長制となったときには、1等戸長の月給は10円、2等戸長は8円で、この規則に対応した月給となっている。
ところがこの「区戸長月俸規則」、必ずしも徹底されていなかったようで、函館支庁は8年10月に「戸長給料ノ義伺」という伺書を長官へ提出し、その中で「給料は民費、官費、無給と各地一定していないので、昨年の第六号達書の通り当分の内官費で統一したい」としている。この伺書には、5年9月に青森県管轄から開拓使管轄となった渡島国福島、津軽、檜山、爾志4郡について、戸長給料は青森県管轄以来民費対応を続けてきたが、青森県のときは租税が免除されていたのに開拓使では租税も徴収されて過重負担となっているので、函館と同じく官費支給とするよう再三請願があったことが付記されている(「開日」)。
この伺対して翌9年3月20日に「伺ノ通」という指令があった。ようやく函館支庁管内一円で戸長の給料が官費支給で統一されたのである。なお、この指令には「明治八年四月以降ハ出港税ヨリ支出ノ義ト可相心得事」との但書が付いており、8年4月に「一般ノ税則モ難行場合ニ付官金ヲ以民費ヲ補フ者多々有之」として設けられた出港税が財源に位置付けられていた。