諸施設の移転と都市形態

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 都市空間の拡大は面的に把握されるばかりでなく、施設の移転によって点から面を想定する手法も有効であろう。しかし、施設の性格上からその位置づけの持つ意味あいが違うことも留意する必要がある。つまり遊郭の当初の立地は市街地の縁に隣接する場所が考えられるし、区役所は市街地の中心部に求められるように、それぞれの機能により相対的に立地場所が異なるのである。このことを市街地の拡大とともに表したのが、図4-17である。
 まず、遊郭については明治4年の大火により山の上町より、幕末時に整地されていた大工町地続大森浜通の蓬莱町へ移転した。これ以降市街地が拡大する中で、蓬莱町は明治30年代に至っては「現区域地たるや区枢要の衛衢に位置を占領し風紀衛生上其他公安上適当の地ならざる」(明治36年3月14日「函館公論」)という状況であった。そのため遊郭営業者の代表より、移転地として東川町301番地の函館中学校の付属地の払下願いを北海道庁に提出した(明治36年3月19日「函館公論」)。これに対して函館区としては「遊廓ヲ移転セントスル東川町三百一番地ハ現下ノ状態ヨリ見ルトキハ、稍市街ト隔離シ風紀其他ニ別段ノ支障ナキモノヽ如クナルモ、該方面ハ逐年人家増殖シ、区中ニ於ケル開発ノ度合最モ高キトコロナレハ、其形勢ニ依リ将来ヲ推考スルニ、今般十数年ナラスシテ必ス現市街ト連絡スヘク、随テ風紀上ヨリミルモ遊廓地トシテハ適当ナラサルモノ」(明治36年「常設委員会決議録」)という判断を示し移転は認められなかったのである。

図4-17 市街地拡大と諸施設移転の概念図


港内より山腹を望む(明治12年大火)

 次に、市街地の中心部に多くの空間を有する寺社空間の移転についてみることにする。これまでは寺社施設の移転は大火との関連の中で説明されてきた。もちろん移転の直接的契機となったのは、明治11年および同12年の大火であることを否定するものではない。しかし高龍寺や八幡宮移転については大火以前より計画がすすめられていた。明治11年7月31日付の開拓権大書記官時任為基より、長官黒田清隆への八幡宮移転の伺書の中で「現今ニシテ之ヲ見レハ、市街ノ中間ニ挟リ回隣民屋囲繞致シ居、狭隘切迫地ニテ国弊社地ニハ甚不適当、却テ商估営業ニハ必要ノ地ニ有之候」(明治11年「函館支庁伺上申録」道文蔵)との移転理由を述べている。高龍寺についても同様の伺書が出されており、その内容から総代人らの願いが先行していることも理解できる(明治12年「高龍寺移転一件」)。八幡宮は現在地谷地頭町に明治13年に、高龍寺は同12年に現在地船見町に移転している(明治12年6月9日・13年10月25日「函新」)。
 その他の3か寺(能量寺、称名寺実行寺)については、明治12年の大火の際に杉浦嘉七、渡辺熊四郎等42名が街区改正にともない移転した高龍寺の接続地に移す旨の請願をした(『開事』第2編)。この件については開拓使は道路改正委員会の審議を経て、寺院3か所(能量寺、称名寺実行寺)は台町高龍寺より東南の地へ移転の事、墳墓地は前地所に接する山の手の事と決定した。これに対し能量寺(現在の本願寺東別院)は、現在地元町に土地を所有していたこともあり、そこに移転しており、他の寺院は現在地にあたる船見町に移転した(『北海道寺院沿革史』)。
 さてこれまでは施設の市街地より外への移転についての例証であったが、区役所移転については元町からその中心への移転を求めて議論を呼ぶことになった。明治34年の第20回区会において、次年度の予算のうち臨時部歳出の中に病院新営費2万4000円が計上され、その場所は旧函館病院跡地とされた。そして本病院が開院した後は豊川病院を全廃して、その後区役所に転用することを考えていた。この提案に対し、新営地として東川町を経済上および利便性より支持する意見も多くあり、決定に至らなかった(明治34年11月30日「北海朝日新聞」)。
 その後、途中の経緯は判然としないのであるが、理事者より再提案された内容は、旧病院跡地へ区役所を新営するというもので、全会一致で議決された(明治34年12月12日「北海朝日新聞」)。今度はこの議決に対して新聞社を中心に区民大会が開催され、区長および議員らへの批判大会となり、区役所敷地を中央便宜の地に変更申請をすることを決議した(明治35年1月8日「北海朝日新聞」)。このような社会問題化した区役所移転について、相馬哲平が仲をとりもつ形で区役所の位置を中央の地に定めることに賛同し、豊川町の地所の提供と建築費の一部を寄付することを区に申し出た(明治35年1月13日「北海朝日新聞」)。これを受けて再度区会において相馬哲平よりの寄付の願出を許可し、その他の建築費を臨時部の歳出経費に追加し、豊川町に区役所を新営することが決議されることになったのである(明治27年~36年「決議書綴」)。
 最後に、明治28年4月に設立された函館中学校(現在の中部高校)の移転については「建物腐朽したれば差当り改築の必要あれ、現校舎の敷地は位置、甚だ不適当なれば適当の位置を選定して移転せしめん」(明治35年10月21日「北海タイムス」)という理由からであった。この移転候補地として遊郭移転の際にもふれた東川町と亀田村、七飯の各地所があげられており、結果的には時任為基所有の1万余坪の寄付により、大字亀田村湯川通に決定した(明治36年4月29日「函館公論」)。これに類する事例として遺愛女学校も明治36年10月に、元町より郊外湯川通りに移転地を定めており、当時は人家も樹木もなく雑草茫々たる荒地であったという(『遺愛百年史』)。
 このような市街地からかなり離れた地所に移転する要因として、施設の性格上から広い敷地が必要であるということがまず考えられる。しかし、それにしてもこの距離をそれだけの理由だけで説明できそうにない。この点を前述した馬車鉄道という新たな交通体系の整備による、都市空間の拡がりから説明できないであろうか。通学に馬車鉄道を利用したと短絡的に考えるだけでなく、都市空間のイメージ的拡がりが行動圏にも影響を及ぼすという試論である。
 以上のように、都市空間の拡大は市街地の拡がりとともに、それに誘引されるかたちで諸施設の移転という事象からも理解できる。しかもその施設の持つ機能性の違いにより拡散することにもなった。市街地の広がりは、実質的地価などからも推察できるように、中心部の均一化をはかりながら進行していく事が考えられ、そのために土地生産性の低い学校や寺社などの施設は、その中心部から排除されることになった。また区役所のような都市機能として重要な施設の移転地は、利害がからむため複雑な様相を呈するのである。
 そして、諸施設の移転はそれまでの都市空間の機能性を大きく変える要因ともなり、それまでの都市形態をも変容させた。幕末期の都市形態が大きく変わる具体的事象として、寺社空間と区役所にみる行政空間の移転からも説明でき図4-18のとおりである。つまり幕末期の都市形態の解体は、明治11、12年の大火の際の市街地内部の街区改正とその後の都市空間の拡大により説明できると思われるのである。

図4-18 明治後期の都市形成概念図