輸入貿易の特徴

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 冒頭に述べたように函館の輸入貿易、特に直輸入に関してはあまり見るべきものがない。「輸入ハ居留外国人ノ需用品ヲ重トシ」(前掲「函館商況」)とあるように函館の居留外国人の自用のためのものが多く、その額も連年の輸入額が数千円から数万円という水準で、僅少にとどまっていた。13年と14年のみが突出して10万円台となるが、これは開拓使が札幌・手宮間の鉄道建設のために鉄管やレールなどの工事用資材等を輸入したものであり、いずれも開拓使が輸入したいわゆる官用輸入品であって通常の輸入とは性格を異にする。また13年の場合は三菱会社でイギリス汽船ドラゴン丸(松前丸と改称)を購入したことも輸入価額を引き上げた要因であった。また価額こそ少ないが注目すべき品目としては石油と塩魚があげられる。石油はアメリカ産のものが明治6年以降ほぼ毎年のように輸入されており、8年がこの期間としては最高額(1万6837円)を示している。石油輸入は後期に入るとロシア産の輸入が顕著になり本格化していく。また塩魚は金額こそ小額であるがウラジオストックやニコライエフスクなどから輸入された塩鮭であり11年以降毎年輸入されており、ちなみに12年の輸入は長崎の商人の手によってなされている。こうした露領における買魚による輸入は明治後期に顕著となる漁業貿易の先駆けともいえるものである。
 以上のように直輸入の市場としては函館はほとんど語るべきものはないが、外国製品の消費市場として未成熟であったわけではない。函館の場合は外国製品の搬入ルートとしては直輸入と内国ルートがあり、後者の比重が高かった。すなわち直輸入されて市場で売買されるよりは他の開港場、特に横浜を経由して輸送されるほうが上回っていた。国内ルートの外国製品の函館搬入の状況を見ておこう。函館に輸送される輸入品の大半はまず横浜に輸入される。通関手続きが終了すれば、それは後は内国流通にのる商品と化すのである。その品目構成は表6-22のとおりであるが、綿製品と羊毛製品、つまり衣類等の繊維製品が連年あり、元年と2年には武器の移入があり、また米の搬入も顕著である。元年の武器購入は東北諸藩によってなされている(「箱館府外国局日誌」『函館市史』史料編第2巻)。この他に砂糖や雑貨類がある。ただしこの雑貨類は日本製品で日本商人が荷主である場合が多い(前掲『イギリス領事報告』)ので、ここでいう貿易の範疇外ではあるが、外国商船の扱いということで表の中に包含されている。これは函館と横浜の外国船による活発な就航により中央市場から函館へ輸送されたもので、主に国内流通としての側面を持つものである。いずれにしても外国製品は横浜を中心として同港からの移入品として函館に輸送されてきている。またこうした輸入品を扱う商人のなかから渡辺熊四郎、今井市右衛門、平田文右衛門、平塚時蔵といったいわゆる洋物商人が成長してきて市中商人の中枢的な存在となってくるが、これも函館が舶来品市場としての発展していくことと表裏一体の現象であった。
 
 表6-22 外国商船による国内からの移入品
年 次
綿 製 品
毛 製 品
砂  糖
そ の 他
工業製品
石  炭
武  器
弾 薬 類
そ の 他
雑  貨
明治 1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
10,175
70,556
79,320
5,584
1,828
0
0
0
0
0
40,148
95,069
52,570
1,807
3,694
9,015
0
0
0
0
6,087
319,103
248,088
0
2,400
0
0
0
0
0
11,766
30,123
22,660
10,555
13,424
5,749
7,626
0
1,424
0
0
0
0
7,988
4,839
0
1,040
0
2,436
0
50,586
50,157
14,330
10,009
60
5,040
22,831
29,368
5,250
0
52,658
108,964
12,200
2,500
0
0
0
0
0
0
36,296
72,112
53,839
128,967
207,450
13,674
11,737
10,116
7,430
14,592
207,716
746,084
483,007
167,410
233,695
33,478
43,234
39,484
16,540
14,592

 各年『イギリス領事報告』(国立国会図書館蔵)より作成.
 
 『イギリス領事報告』で各年のこうした開港場からの輸移入の概況をみておこう。元年は詳細な報告はないが、2年については木綿、羊毛製品は多大の需要があり、増加する見込みであると予測している。武器類は徳川幕府(編注・旧幕府脱走軍)のためであり、英・仏以外の外国船で持ち込まれた。外国汽船の入港により石炭も4000トン余が輸入された。米穀は榎本軍の占拠により回米に不足がきたし、そのために清国から輸入された。戦争終結後も米価は高騰したままであり、報告者である領事のユースデンは自分が来た3年前は日本米で1ピクルで15シリングであったものが、この年は清国米でさえ1ピクルで25~45シリングと数倍も騰貴していると述べている。5年の報告では函館の輸入貿易は前年比であまり大きな差はないものの、函館への外国商品の輸入は横浜から商品を持ってきた日本人の手中にほとんど全部握られており、この商品の交易が当地で重要な意味を持っている。すなわち大量の外国製品-既成の衣料品、ランプおよび他の器具、外国からの仕入れ品、大量の雑貨など-が日本人の商店で販売するために展示されていることからも明らかである。砂糖やいくつかの雑貨は在函の清国商人が取り扱っている。そしてこうした製品も日本船やアメリカの太平洋郵船会社の汽船で輸送されてくるためイギリス領事もその全容を全て知ることはできないと述べている。
 これらの報告でわかるように貿易統計上では直接海外から輸入された額はごくわずかではあるが、実際には移入品に姿を変えて相当大量の外国製品が市場に提供されたといえる。5年以降の外国商船による国内からの移入が急激に減少したのは移入がなくなったということではなく、その輸送が日本の商船に移行したからにほかならない。海外輸出については国内の海運体制が整わないため依然として外国商船によって輸送されているが、内国経由で函館に移入されていた外国製品の大半が日本船によって輸送されるようにかわってくる。その間の事情を領事は外国商船による輸入類、特に国内輸入は日本人の船で輸送することが非常に大きくなっているため、かなり多くの減少をうけていると述べている。外国製品が移入品として函館に入ってくるという事情は10年代に入っても同じ傾向を持っていた。
 例えば12年度「函館商況」には「輸入外国品ノ横浜ヲ初メ各港ヘ輸入スルモノ、汽船ノ便ニ依テ本港ノ回送シ本港ヨリ全道各地ニ頒布…」と述べていること、また『横浜市史』第3巻下によれば横浜輸入品が同地の引取商あるいは東京の問屋経由で函館(東京の場合は北海道)に分送される高として明治11年7月から12年6月までの数値を掲載しているが横浜からは砂糖が、東京からはモスリン、砂糖、石油が相当大量に送られていることからも明らかである。