年 次 | 輸 出 総 額 | ||||
総額 | 内 国 商 A | 内 国 商 B | B/A | ||
明治6 7 8 9上 9下 10 11 12 13 14 15 | 円 437,537 265,089 395,997 170,476 303,359 483,047 722,299 692,524 749,262 843,628 508,088 | 円 0 48,520 22,042 ? 21,911 130,153 290,266 368,333 325,312 378,925 86,103 | % 0.0 18.3 5.5 ? 7.2 26.9 40.1 53.1 43.4 44.9 16.9 | 円 0 44,590 3,144 ? 21,042 98,041 238,923 331,978 300,124 340,944 78,980 | % 0.0 91.9 14.2 ? 96.0 75.3 82.3 90.1 92.2 89.9 91.7 |
各年『大日本外国貿易半年表』、明治6年の内国商欄は『農商務卿第1回報告』、9年上期は半年表がなく不明、15年は『イギリス領事報告』
それでは、広業商会の登場により、函館における輸出貿易の内・外商の比率はどのような展開となったであろうか。表6-28に構成比を示したが、広業商会が実質的に事業を開始した明治10年は内国商の扱いは総額で26パーセントにとどまっているが、翌11年には40パーセントを越え、12年になると半数以上内国商の手によって輸出されるようになった。広業商会のシェアが半数程度であったということの意味は「維新前後ヨリ当今迄専ラ函館於テ昆布ヲ買取スル清商ハ成記、万順ノ両号ニテ今尚盛ンニ営業セリ此等ノ手ニ入ル昆布ハ資力アル出産人ノ採取セシモノ及ヒ資金償還ヲ済マシタル後自由ニ販売スルモノヲ買取ナリ」という事情があったからである(「収獲ノ多寡如何」前掲『饒石叢書』)。内国商による輸出品は昆布に集中しており、12年の場合は内国商輸出額の実に92パーセントが昆布であった。
その年の前後も80パーセント台の比率を示している。ここでいう内国商とは広業商会が主であり、この他に一時的には三井物産による輸出もなされている。「商況統計表」(道文蔵)によれば三井物産の輸出額は明治12年度が2万1670円、13年度が11万8823円であり、これらは委託販売によって上海に直輸出したものであった。三井物産は15年に海産物の輸出を停止するが、明治20年代には再び開始している。
このように昆布輸出が内国商によってなされるようになり、従来清商が握っていた相場決定権を奪うことができた。これに伴い函館の昆布相場が上昇傾向をみせ、釧路産昆布の例でみると100石平均単価が9年で430円であったものが、13年では681円、14年は771円と騰貴していった。こうした騰貴傾向もシェアーを奪回したという事情と産地集荷-函館-横浜-輸出ルートのなかでの国際為替相場の動きも影響している。清国上海市場とこちらの価格差、それから諸経費を控除したものが利潤であるが、これに銀相場の国際的な変動があり、それも利潤幅を大きくする要因ともなっている。
従来この昆布輸出で独占的な利益を得ていた清商のなかには函館から撤退するものが生じてきた。とりわけ清商中の2大勢力であった成記号は13年に撤退し、万順号も漸次経営規模を縮小し、16年に至り撤退した。
こうした動きについて14年2月に上海駐在の品川領事は河瀬農商務局長に対して次のような報告をしている(明治14年「雑書」道文蔵)。
毎年上海輸入スルトコロノ昆布ハ大約二千四、五百万斤ニ至レリ。広業社開店以来該店ニ経由スルモノ十中ノ七、八ニ至リ而シテ万順、慎章、徳順、義盛、履祥、同泰等ハ資本八十四、五万円ヲ以テ函館ニ営業セシガ今、漸ク其二、三分ノモノヲ販売スルモノトナレリ。依之清商ハ漸々店ヲ閉ジ帰国スルモノ又少シトセズ。明治十三年ニ至テハ清商ノ永続スルモノ僅カニ三軒トナリ今春寧波ノ商人徳順モ又該地ノ商業ヲ止メントス。既ニ如斯ノ勢ニ到ルハ従前此一店ヨリ貸付セシ金員幾千ハ転ジテ広業商会ニ依頼シ来リ貸付資本増加スルノ由縁トナレリ。是他ナシ其商業ノ我商社ニ帰着スル故ナリトス。 |
表6-29は明治初年から3県期末までの清商商社の一覧であるが、成記号、万順号の2大商社の衰退のなかで清商の業界再編の動きをみることができる。この時期が清商にとり次の時代への雌伏期であった。業界再編、広業商会の衰退のなかから新しい階層の登場が見られるようになった。「昆布販売顛末」には成記号や万順号は止めたが「其番頭ヤ手代ナル者ガ跡ヲ継イテヤツテ居ツタノデ資本モ大キナ資本ヲ持テ居ナイ連中」と述べている。
表6-29 明治前期の清国商社一覧
「各国官使文通録」「高田家文書」「検印録」「諸課文移録」「各国官使来翰検印録」「籍牌書類綴」「饒石叢書」「清国官民文移録」「雑事編冊」より作成.
群小の清商どうしで共同経営を始めるなど、清商内部での世代交替的な動きがみられた。それを可能としたのも、彼らが多くの商取引に従事し経験を積み、また消費市場である本国の状況を熟知していたことなどによったものと思われる。 それはまた広業商会の活動開始後も、函館の有力海産商や、資本貸与を受けない大規模な生産者は依然として清商との取引を継続しているということからもいえる。広業商会の監督官である函館在勤の大蔵省官吏も、こうした点について「今ヤ広ク貿易ヲ盛ンナラシムルノ時ニ在テハ外商ヲ駆逐スルモ好ム所ニアラズ、益来テ貿易ヲ為スベク又我商賈モ逐次彼ノ国ニ至リテ愈貿易ノ利ヲ課ンコトヲ勉ムベシ、只主眼トスルハ我人民貿易ノ権利ヲ彼ニ制セラルルト制セラレザルトノ一点ニ注目スルニアルノミ」(明治12年「函館広業商会事業概略」道文蔵)と報告し、あくまでの清商による不当な利潤獲得が排除されれば、必ずしも清商の駆逐は望まないと現実的な認識を示している。従って清商と対等な取引を可能とした函館の有力な海産商あるいは大規模の漁業家にとり、広業商会は清商と同列の買手の一員にすぎなかったといえるのではないだろうか。広業商会が海産物貿易を全て自己の商権下に置くことのできなかった理由のひとつに、こうしたこともあげられよう。明治15、6年ころの新聞記事で昆布生産地の生産者、例として小林重吉は昆布を清商へ売却している。例えば「会所町の持場所なる三ツ石より西洋形帆前大洋丸にて昆布三百石余り入着せしが…支那人へ売込む手筈…」(16年8月6日「函新」)といった事例を挙げることができる。 ところで前述したように明治9年にはじめて清商商社の構成者が明らかになるが、今その年と3県期のものとを比較してみよう。明治17年の清商の様子について「雑事編冊」(道文蔵)が詳しい。それによれば9軒、24名の清商を列記し、そして次のように述べている。 |
震大号陳子嘉以下弐十四名ハ昆布海鼠等ノ海産物ヲ日本商仲買等ヨリ買入横浜、兵庫或ハ支那ヘ輸送シ為メニ明治九年前迄ハ当港外国貿易ハ一ニ此輩ノ掌握スル所ナリシガ、同年広業商会設立以来、該商会営業ノ盛大ニ従ヒ商権ヲ回復シ明治十三年度ニ至テハ本港外国輸出品ノ過半ハ我商賈(重ニ広業商会)ノ手ニ帰セリ。而来多少商況ノ消長アリト雖モ之ヲ要スルニ清国人昔日ノ手数ヲ逞フスル能ハザルガ故ニ今日ヲ以テ四、五年前ニ比スレバ彼資本ノ供給ヲ減省セルモノノ如シ。前記数名ノ内商業上勢力ヲ有シ手広ニ取引ヲ為スモノハ慎昌号ニシテ資力第一ニ出ル。之ニ次キ震大号ハ資力ハ充分ナラサレトモ人物活発ニシテ商業ニ熟練シ手広ク取引ヲ為セリ。徳新号ハ又之ニ次ク。其次ハ志成泰号ナリ。而シテ震大、慎昌、徳新ノ三店ハ従来日本商取引ノ景況ヲ見聞スルニ三店競争シ合同スルコトナシト云ヘリ。 |
この調査はこれらの商社とは別個に6名の清国人を上げて海産物の「仲買様ノ事ヲ為シ生活ス」と述べている。ここで取り上げられている清商の貿易扱い高は不詳であるが、いずれにしても広業商会の登場前とは明らかに様変わりしていることは事実である。しかしその構成員を個々にみると前に述べたように共通している人物が多いことがわかる。