乗組員の養成

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 さて和船から西洋形帆船への移行にともない、それを動かす乗組員の存在を無視することはできない。実際問題としてある商人が所有船舶を和船から西洋形帆船へと転じた場合、その運航主体の問題はどうなるのであろか。たとえば明治8年の事例として大町寄留の商人一戸久蔵の場合でみてみよう。彼は10月にジョン・ウィルから西洋形帆船を購入したが、「差向運転方差支候ニ付為航海長英国人ジョン・ウィル雇入」(「開公」5288)、つまりウィルから西洋形帆船を購入したのはいいが、その運転に支障があるので、売手であるウィルを雇い、彼を航海長すなわち船長として採用する、ということであった。ちなみにウィルの雇用条件は月200円で6か月採用であった。
 
 表7-10 小型船船長試験合格者
船名
船主
入校年月
受験人氏名
隼丸
環光丸
正丸
大栄丸
下船中
 〃
富山丸
下船中
 〃
亀田丸
仁風丸
新運丸
蜻蜒丸
蜻蜒丸
下船中
善宝丸
長運丸
厚岸
長運丸
下船中
雄阿寒丸
翔蜒丸
蜻蜒丸
石川丸
弘済丸
下船中
開運丸
下船中
栄勢丸
長運丸
田中正右衛門
穀田運蔵
佐野平右衛門
藤田庄七
 
 
小林重吉
 
 
本間長三郎
村田駒吉
新谷彦八
中野善兵衛
中野善兵衛
 
西沢弥兵衛
中村金右衛門
池田儀右衛門
中村金右衛門
 
佐野孫右衛門
竹富善吉
中野善兵衛
米木権右衛門
矢本蔵五郎
 
武田茂兵衛
 
仲栄助
中村金右衛門
13年1月
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
13年2月
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
13年3月
 〃
 〃
13年4月
 〃
 〃
 〃
菊地正之助
中村松蔵
浜谷長次郎
中村庄太郎
近江金八
角谷新七
加藤権三郎
榎本梅吉
松山又吉
石川善五郎
福田富三郎
菅原友吉
今村万吉
寺田庄右衛門
藤本三右衛門
中瀬庄太郎
堀内幸吉
斎藤由次郎
菊地森蔵
西浦善蔵
三橋徳兵衛
満石万吉
西山常吉
松浦虎之助
滝川作造
馬場喜次郎
石田常三郎
鈴木松三
丸虎吉
平野幸吉

 「商船学校書類」(北海道立文書館蔵)より
 
 9年6月内務省は「西洋形商船船長運転手及機関手試験免状規則」を公布した。これ以降東京において月2回試験をしたが、神戸や函館においても官員を派出させて臨時に試験を行った。函館では9年10月21日に支庁管下へ布達を出して、駅逓寮の官員が試験官として立ち会いのもと10月24日から11月4日にかけて富岡町の東本願寺掛所で試験を行った。地方の場合は年1回の試験のみであったので、駅逓寮は東京での受験を受けることが出来るようにと、便宜を図り、三菱汽船の無料乗船の措置をとった。また函館に商船学校が設立されると帆船に乗り組んでいる人々は入校して数か月授業を受けて試験に合格している。ちなみに表7-10は13年に商船学校で実施された小型船(西洋形帆船)の船長試験の合格者の一覧である。受験者の大半は西洋形帆船にすでに乗り組んでいる人々である。つまり和船から西洋形帆船への移行には旧来の船頭以下その他の乗組員は運転の対応はできたわけである。すなわち明治13年度「函館商況」(道文蔵)に商船学校の開設以来、船長らの乗組員が航海の余暇に学術研究の便を得て、かつては経験のみに頼り航海していたものが、今日では学んだことをすぐに実地に移して研究でき、また西洋形帆船の便利さと安全性を了解することになったと述べているように彼らは一層の技術習得に努めたのであった。
 また、明治13年に開拓使は西洋形帆船の普及と技術向上を目的として函館港内においてスクーナー競争を始めた。これは商船学校世話係の小林重吉がスクーナー競争の実施を呼びかけていたものに呼応したのであるが、16年までつづけられた。こうした西洋形帆船の競争はこの当時としては画期的な試みでもあり、西洋形船舶の普及奨励、構造改良、運用術の進歩といったことに大きく貢献したのであった。