「日本大廻り」航路の成立

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 ところで、三菱は外国汽船会社との競争をおし進める一方で、国内沿岸航路の拡充を図った。これは前述した第一命令書第6条に「内国環海ノ定期運航ハ計算相当ヲ目途トシ協議ヲ以テ漸次開進セシムベシ計算不当ノ場所ヘ定期運航ヲナサシムルトキハ別ニ相当ノ助成ヲ給与スベシ」の条項があり、政府が主要港湾間の定期便の開設を期待していたので、それを具体化したものであった。また三菱にとっても国内海運網の掌握を目指す意図があった。命令書に基いて明治9年4月から従来の横浜・函館の航路の他に横浜・函館・舟川・新潟・伏木・敦賀を月に1度結ぶ北陸航路を新設した。この北陸航路の開設は北陸・東北の米や北海道の諸産物の輸送を掌握することをめざしたものであるが、この航路の第1船として瓊浦丸が4月30日に函館に入港し、翌5月1日に舟川、新潟に向けて出帆している(明治9年「函館支庁日誌」道文蔵)。三菱は北陸航路の開設を端緒に、さらに航路を全国網へと拡充しようとした。すなわち9年7月岩崎弥太郎はこの日本海航路を西周りの便で連絡することを考えて次のような書状を同社幹事の川田小一郎、川崎正蔵あてに送った。
 
先達て北国航行の義に付、御地にて取調候様御懸合に及び、其節委細に御報告有之候へ共、小生に於て少々考慮の筋も有之、遅引に相成居候処、過日瓊浦帰港の處、随分彼の地方角は見込も有之に付、今廿六日発船の豊島丸は函館より向に越前の敦賀迄差廻候に付、浪花よりも今回伏木港迄一艘差立候様致度、伏木より引返し大阪に帰港、此の次立ては大阪より函館迄一艘仕立、函館よりも大阪迄一艘仕立、双方打ち違へに交航候様致時は、便利宣敷かと相考へ申候。則ち御地より馬関を経、雲州松江、敦賀、処々の港を経、伏木港へ迄近々差立候積りに候間、其の御考にて彼是と各処への荷物御取調べ被成度候
(『岩崎弥太郎伝』)

 
 これは北陸航路の機能をさらに一歩進めて東周りの航路を西周りと接続することで本州を1周し関東、関西、東北、北陸、日本海、そして北海道と物資の交流を促進するところにねらいがあった。同じ年の8月には「当社先般東京ヨリ函館、新潟、伏木、敦賀ノ諸港ニ達スルノ線路ヲ設ケタルモ未ダ北海運輸ノ便ヲ尽サザルヲ以テ今回大阪ヨリ下ノ関及北海諸港ヲ経テ函館ニ達スルノ新線」を開設することにした(『三菱社誌』第3巻)。こうして9年8月には大阪・下関・北陸諸港・函館の日本海航路の新航路が開設され、岩崎弥太郎の念願であった「日本大廻り」(『岩崎弥太郎伝』)が完全に成立したのである。ここで注目すべきは国内海運における函館の持つ位置の重要性を岩崎自身が掌握していることである。いかに函館を海運の要衛と位置づけているかわかる。
 
 表7-11 明治前期の船種別入港表
年次\種別
和船
汽船
西洋形帆船
船数
噸数
船数
噸数
船数
噸数
明治2
   3
   4
   5
   6
   7
   8
   9
  10
  11
  12
  13
  14
  15
  16
  17
  18
  19



3,370
3,900
2,742
3,079
2,591
3,472
2,716
2,566
2,423
2,143
2,304
2,282
4,036
3,524
2,637






101,637


73,312
79,748
68,098
64,044
62,542
58,502
51,028
48,376
61,988
42
45
14
32
27
24
203
255
197
*382
*458
*488
500
722
901
1,227
1,452
1,377
25,993
30,094
14,202
40,400
25,665
91,780
112,545


132,407
167,093
179,460


237,728
354,282
489,911
446,954
88
56
38
78
207
321
204
98
185
*367
*516
*657
658
679
604
504
520
524
26,254
17,128
10,955






20,091
37,983
44,171


38,511
31,355
39,821
41,699

 『函館市史』統計史料編より
 *はそれぞれ各年度の数値である(各年度「函館商況」道文蔵).
 和船の船数は原史料では石数であるが、ここでは噸換算した.
 …は不明
 
 ところが岩崎の期待に反してこの航路における三菱の浸透は容易なものではなかった。11年段階でも日本海航路に関してこの地域は旧習を固守してもっぱら和船輸送に甘んじていると岩崎弥太郎を嘆かせている。西周り航路への進出が思うように進まない理由として物流形態のあり方に大いに関係していた。西周りは買積船である北前船が幕末以降依然として主流を占めていたためであった。東周り航路は外国商船による他人貨物運輸の形態が早くから確立されていたし、また開拓使付属船やその他の海運会社の汽船利用が顕著であったため、三菱への移行が比較的容易であったのに対して西周りの北前船による商行為を含んだ海運活動の前に三菱がその一角をつきくずすことは容易ではなかった。函館における和船の出入が明治初年と10年代初頭とでは差はあまりなく(表7-11)、その比重がまだ高かったのも、西周り航路の性格が反映されている。しかしこの三菱の西周り航路への進出は旧来の和船による廻漕業者、北前船主層には大きな脅威となっていった。特に函館の場合は10年代になると「日本形船ノ年ヲ遂フテ減少スルハ不得止ノ勢ト云フベシ」(明治12年度「函館商況」『函館市史』史料編2巻)といった現象が顕著になり、また全道的には10年代後半から20年代にかけて電信の普及等により、遠隔地交易による価格差を利潤とした北前船の出入りが減少していったのである。
 9年9月政府は第二命令書を三菱に達した。これは前年に発した第一命令書に基づき同社に対する運航助成金を14年間行うというものであった。第一命令書では総額25万円としていたものを第二命令書では次の6線の航路別に助成金を定めている(『三菱社誌』第3巻)。
 
上海線(20万円)、東京・横浜・神戸・大阪線(2万円)、東京・横浜・函館線(1万円)、東京・横浜・新潟諸港線(1万円)、東京・横浜・四日市線(5000円)、長崎・釜山(5000円)

 
 これらの航路は大久保内務卿の提出した「着手方法見込書」のなかで三菱が定期航路を開設すべきものと指定されたものであったが、これによって政府では横浜-函館の航路を国内の主要幹線として位置づけていたことがわかる。貨客量に応じた不定期航路と違い、定期航路はその量の多寡に関係なく運航しなければならず、このため順調な輸送量の増加を期待できない状態にあっては、赤字を出すことになる。この助成金の意味は、それを補填することにあった。政府は助成金を支出し主要幹線の定期航路を開かせたのも外国海運勢力から自国の沿岸及び対中国・朝鮮への運航権を確保するためであった。