共同運輸の体制が整う

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 共同運輸は合併3社の船舶を継承したのであるが、これらは木製の小型船舶であり、政府としても260万円の国費を投じたので共同運輸が三菱を圧倒しうる新鋭船隊の創出を求めた。明治初期の汽船は軍事輸送の必要からその大部分が上海、香港などの東洋の古船市場で調達された老朽船で、それを三菱が下付されたのであった。当時三菱への攻撃の一つとして同社が海運独占にあぐらをかいて船舶の更新をはからなかったということがあるが、政府・共同運輸は発展めざましい西欧諸国の造船技術から産みだされた高性能新造船をもって三菱の独占打破をめざした。
 16年当初に伊藤社長は渡英して新造汽船の建造もしくは購入にあたった。同年9月には遠江丸(2473トン)を始め翌年には山城丸(2528トン)などがわが国に回着して、17年末には新鋭商船隊の一応の完成をみた。700トン以上の汽船が17年末で共同運輸が18隻、2万5579トンに対して、三菱は20隻、3万3623トンであり、三菱が依然として優位にたっているが、三菱の大半の船舶は老朽化していた。
 両社の競争が特に顕著となったのは17年の後半に入ってからであった。共同運輸が英国に発注していた山城丸をはじめ13隻(2万3000トン)の汽船が日本に回着し、体制が整備されたため横浜-四日市間や横浜-神戸間など従来不定期であった路線を定期化したことから、これらの路線を中心に両社の競合が激化した。また道内関係の航路においても三菱と共同運輸の船が定期、不定期にかかわらず直接に競合関係が生じてきた。
 今17年中の共同運輸の北海道関係の路線をみると次のとおりである。
 横浜~函館~小樽~根室、横浜~函館~青森~舟川~土崎~新潟、横浜~函館~小樽~舟川~酒田、横浜~函館~寿都~小樽、横浜~紋鼈、横浜~神戸~馬関~函館~根室、横浜~函館~根室千島、函館~青森、森~室蘭(定期)、函館~根室国後諸島(定期)、北海道沿海諸港の間となり、前年に比較して北海道・函館関係の航路は増加している。
 なお前年東京発着であったものが3月から横浜を発着と改めた。この結果全国の趨勢と同様に函館を起点とする航路においても共同運輸と三菱の競合が激化してくるのである。例えば北海道と本州を結ぶ主要幹線の1つである函館・横浜航路に関して在函イギリス領事は明治17年の状況として「函館・横浜・東京間の運賃は前年(編注・16年)より三菱会社と共同運輸会社の競争により低くなった」と述べていることもそうしたことを反映しており、また青函航路も三菱が隔日の定期運航をしていたのに対して、共同運輸側も17年に入ると隔日運航を開始して、ほぼ定期的な航海体制を取るようになった。