開業当初の数か月は昆布収獲の時期であったため、その主要産地である浦川・幌泉に航海した。その後の11月からは室蘭・紋鼈(現伊達市)へ月2、3回就航している。当時の紋鼈は噴火湾沿岸のなかではこの地方きっての市街地を形成しており、消費物資は主に函館から移入していた。そのため同航路は、地場の商人の手によって、あるいは函館の米穀商太刀川善吉が明徳丸で運送を行うなど帆船による輸送が不定期に行われていた。海運業はいわゆる他人貨物運送を指しており、その経営は輸送する荷物と乗客があって始めて成立するわけであるが、室蘭・紋鼈-函館間の航路はそのリスクが小さく、海運市場の原理が確立されつつあったといえよう。渡辺熊四郎はこうした点に注目して航路を開き、そして順調に輸送量が確保されてくると定期便を開き、まず紋鼈の東浜に出張所を設置したのである。また彼は紋鼈製糖所との取り引きもあってその地方の状況も熟知していたと思われる。
20年6月にさらに汽船恵山丸を建造し、2隻体制となったので釧路、厚岸方面へも航路を拡大した。21年1月15日の「函館新聞」には20年中の両船の動向が次のように述べられている。
矢越丸(三百五十石積)室蘭・幌泉地方へ向け八十二回 恵山丸(六百石積)六月以降釧路及三場所地方二十七回 この小汽船は近海航行に用ひ軽便なるよりして貨物搭載の依頼絶えず出港毎に貨物充載せり。矢越丸は室蘭・幌泉の定航なればこの両港への船客荷物はその出入りを待うくるくらいなり。 |
この記事では矢越丸、恵山丸の2隻は北印持ちと表記されている。北印とは函館器械製造所のことであり、対外的には同所所有船とみなされていたのであろう。
ちなみに、矢越丸の室蘭・幌泉地方とは室蘭、紋鼈、幌泉、浦川の諸港を総括的に述べたものである。また恵山丸の場合も釧路、厚岸方面と三場所(日高地方の昆布主産地で三石、様似、幌泉を指す)への航海を意味した。いずれにしても日高、釧路地方を中心に航海していたということである。これらの地方は日本郵船の航路がなく、その間隙を縫って輸送に従事したのであった。特に室蘭・伊達方面への回漕組の就航は次のような影響をもたらした。「虻田・有珠両郡 従来ハ漁獲物ヲ日本船ニテ函館地方ヘ運漕セシニ依リ甚タ不便ナルカ故ニ時期ヲ失ヒ直段ノ為メニ損ヲ来スコトアリ。明治廿年以来汽船ノ通航宜シキ故ニ其期節ヲ失ハス運搬ノ便宜ナルヲ以テ販売上ニ頗ル有益ナリ」「室蘭・幌別両郡 室蘭郡室蘭港ノ漁獲物ハ明治五六年ヨリ廿年頃マテハ港内二百余戸ノ需用ニ供シ余分ハ肥料ニ製シ来リシカ明治廿一年頃ヨリ函館、室蘭ノ汽船頻繁ナリシヨリ函館地方ヘ生乾魚運搬上大ニ便利ナルヨリ価額ニ影響ヲ及ホセリ」(『水産事項特別調査』)とあって、こうした汽船交通が道内の経済事情を変えていくのであった。