肥田浜五郎の調査

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 一方、函館支庁側としても長官より船渠製鉄所の設置に伴う利害得失の研究を指示されていたが、当の函館支庁は「尋常ノ工業ト異ナリ、容易ニ其得失ヲ判定難致」(「開公」5904)として、専門家の派遣を東京出張所に依頼した。これを受けた東京出張所は内務省御用掛の肥田浜五郎に函館行きを要請した。肥田は安政5(1858)年長崎海軍伝習所を卒業した後、幕府の軍艦頭となり、維新後は海軍省・横須賀造船所の創設に携わり、また海軍省主船頭を勤めるなどの経歴を持ち、造船技術に関しては当時の第一人者であった。
 東京出張所は、肥田に対し黒田長官名で「函館港仲浜町海面埋立船渠製鉄所設置ノ見込有之候ヘ共軽挙ニ其目的ヲ誤候テハ遺憾ニ付予メ其地勢ノ便否如何ヨリテ施設ノ方法ノ得失ヲ審査考究致度」(「開公」5900)と述べ、函館への出張、そして現地における埋立用地の選定、船渠築造の方法等の事前調査を依頼した。肥田は、その頃病気がちであることを理由に来函に難色を示していたが、開拓使の熱意に応じ、函館へ出向くことを承諾した。
 9月19日、開拓使付属船玄武丸で到着した肥田は、渡辺らの出願者や函館支庁官吏らの出迎えをうけ、叶同館に投宿し、翌日、関係者一同と会し、船渠設立の意図やその具体的な規模などを含めた意向を確認している。この時時任権大書記官は道内の海運状況ではスクーナー船の建造や修繕を行うための船渠築造で十分であり、地元での汽船建造は時期尚早との判断を下している(「開公」5904)。
 肥田は、当地の関係者の意見を聴取した後、現地調査を開始、山林調査のため札幌本庁から出張していた若山恒道を測量助手に、漁業家として函館湾内を熟知している亀井惣十郎を顧問に迎え、湾内の深浅、海底の地質を調べ、あわせて辻、島野の両造船所、船場町ブラキストン邸の木挽器械、真砂町の海軍省の器械類の視察などを行った。同月28日に一切の調査を終えた肥田は、翌日時任権大書記官にその概略を述べるとともに、帰京後の10月に黒田長官に対し「肥田浜五郎造船演述」(道文蔵)と題した報告書を提出した。
 それによると、肥田は函館港における船渠用地として、図9-1の甲から巳までの6か所を候補地として示し、各箇所ごとに地勢、将来的な展望、面積の広狭、用地取得の経費に言及し、その可否について評を加えている。まず、船場町の甲、乙の個所については水深、敷地の条件も整い、今回の事業には最適地であるが、近年の物資流通の増大から見て倉庫用地としてこの一帯を確保しなければならないとの理由から除外された。丙の箇所は面積上難点があり、病院が近接していること、また将来的には甲乙両地と同様に市街中央地となる地勢であることからこれも不適とされた。今回の出願対象地となった丁の地は地積が狭隘かつ将来事業拡張を考えた場合に予備となる土地を欠いているため不適当とし、己の地も風向や経費にも難点があり不適とした。

 図9-1 船渠用地候補地 『開拓使事業報告』第2編土木より

 
 肥田がさまざまな条件から最終的に建設地として選択したのは戊の地であった。すなわち幸町全町を買収し、西側の沖手を埋立すれば9000坪の土地を確保することができること、また将来敷地の拡充を図る場合も、町勢は東部方面に移ってきているという現状から、弁天町一帯は衰微傾向にあり、用地取得も容易に行われるであろうとしている。
 また肥田のこうした報告とは別に函館支庁側では肥田の推薦した予定地に近接する島野造船所に対し合併の件を勧めており、島野自身も自己の造船所が狭隘であるため、内諾するという動きもあった(実際は実現しなかった)。一方用地買収の対象地にあげられた幸町の地主杉浦嘉七は売却に応じようとしたが、幸町の居住者から移転反対の声があがり、買収の件は取り止めになった(「函館造船所越歴概略」国学院大学蔵)。そのため、当初出願の箇所を埋立しようとしたところ、これまた近傍の商家から船荷の積みおろしに支障があると反対され、計画の行きづまりがみられたところへ、12月6日堀江町からの大火が発生し、官費から支出される予定であった埋立経費は市街復興費へ流用されることになり、ここに事業計画は一頓座を来すことになった。