指定を受けた3か所のうち、豊川町は指定を受けた矢先の6年3月、同町裏町から出火した″屋根屋火事″で町の大半を焼失した。豊川町は前述のとおり幕末に指定された地域だったが、本来は水運の便が良く倉庫や商店を建てるのに良い場所とみなされていた地域であったため、函館支庁はこの火事を機に、焼失した貸座敷業者で同業を続けたい者は蓬莱町か台町へ移転するように、また類焼を免れた営業者へは移転して同業を続けるかあるいは転業して豊川町へ残るかの選択を迫る布達を出し、豊川町の遊里を整理した(同前、「布類」、林顕三「北海紀行」)。6年の「市中諸願伺届留」(道文蔵)には、豊川町の貸座敷営業者から出された蓬莱町への移転営業願や台町への移転営業願あるいは鑑札返納願などが多数綴られている。
こうして再び火事を契機に遊里の移転が行われ、明治期の函館における営業指定地は蓬莱町と台町の2か所になったのである。なお6年4月、台町の貸座敷惣代から既に同地での営業者が20軒前後になり、これ以上増加しては営業に差し障るので「同商売ノ者相増シ不申様」にして欲しいという願いが出された(前掲「市中諸願伺届留」)。函館支庁は願いを聞き届けては「専売ノ格」になり不都合としながらも、日々増加しては「娼妓解放ノ御旨意ニ悖リ且ハ風習ヲ乱スノ勢力ヲ助」(同前)けるとして、翌5月、台町は「従元花街と見做候義ニハ無之、不得止ヨリ一区ノ地ヲ与」えた所なので、「渡世ノ者二十名ニ相満、然上ハ向後願ノ義ハ聞届難相成」(前掲「御達書留」)と、新規開業不許可の達を出した。結局二大遊里とはいえ、台町は貸座敷数20軒ほどの規模におさえられていた。一方蓬莱町は、14、5年頃には貸座敷数も40軒前後を数え、「蓬莱町の繁華は芳原に比す」(『函館新繁昌記』上篇)といわれたように隆盛を極めた。
函館県時代に入ってまもない16年に規則の改正が行われ、営業指定地として蓬莱町・台町のほかに台町周辺の天神町と駒止町が追加され、数か月後にはさらに温泉地の谷地頭も加えられている。
明治18年頃の貸座敷いろいろ 明治18年『北海道独案内 商工函館の魁』より
明治18年頃の貸座敷いろいろ 明治18年『北海道独案内 商工函館の魁』より
明治18年頃の貸座敷いろいろ 明治18年『北海道独案内 商工函館の魁』より
明治18年頃の貸座敷いろいろ 明治18年『北海道独案内 商工函館の魁』より