蓬莱町・台町遊里の指定

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 「解放令」の施行により、芸娼妓たちは金銭貸借により身体を縛り人身売買同様の所業を強制されていたことからは確かに解放されたが、国元で生活ができずに売られて来た彼女たちにとっては生国へ帰ることもできず、函館支庁の意に反し、生きていくために鑑札をもらって従来の仕事に戻った女性が大半だった。たとえば函館における「解放令」実施の実情について詳細に究明されてた星玲子氏の「北海道における娼妓解放」(『地域史研究はこだて』6号)によると、解放後国元へ帰った女性は僅かに4名の実例がつかめるだけということである。こうして遊女の大半が娼妓へ転業したのに加え、従来帆縫女と呼ばれていた私娼も娼妓への転業が認められ、従来の遊女屋、引手茶屋以外にも願い出しだい貸座敷の営業が許可されることになったため、娼妓や貸座敷業者は市中に散在した。これに困った戸長たちは「貸座敷ニ限リ、蓬莱街并豊川町山背泊台町辺三ヶ処ノ内ニ移住ノ上、右渡世可願出旨更ニ御布令替被成下置候様」(明治6年「評議留」道文蔵)と上申、函館支庁は6年2月27日「詮議ノ次第モ有之候間、当分蓬莱街、豊川、台町三ヶ処ニ限リ差許候」(明治6年「御達書留」)と貸座敷業の営業地を3地域に指定した。こうして公娼制度の継続に続き、集娼制度も再現されたのである。
 指定を受けた3か所のうち、豊川町は指定を受けた矢先の6年3月、同町裏町から出火した″屋根屋火事″で町の大半を焼失した。豊川町は前述のとおり幕末に指定された地域だったが、本来は水運の便が良く倉庫や商店を建てるのに良い場所とみなされていた地域であったため、函館支庁はこの火事を機に、焼失した貸座敷業者で同業を続けたい者は蓬莱町か台町へ移転するように、また類焼を免れた営業者へは移転して同業を続けるかあるいは転業して豊川町へ残るかの選択を迫る布達を出し、豊川町の遊里を整理した(同前、「布類」、林顕三「北海紀行」)。6年の「市中諸願伺届留」(道文蔵)には、豊川町の貸座敷営業者から出された蓬莱町への移転営業願や台町への移転営業願あるいは鑑札返納願などが多数綴られている。
 こうして再び火事を契機に遊里の移転が行われ、明治期の函館における営業指定地は蓬莱町と台町の2か所になったのである。なお6年4月、台町の貸座敷惣代から既に同地での営業者が20軒前後になり、これ以上増加しては営業に差し障るので「同商売ノ者相増シ不申様」にして欲しいという願いが出された(前掲「市中諸願伺届留」)。函館支庁は願いを聞き届けては「専売ノ格」になり不都合としながらも、日々増加しては「娼妓解放ノ御旨意ニ悖リ且ハ風習ヲ乱スノ勢力ヲ助」(同前)けるとして、翌5月、台町は「従元花街と見做候義ニハ無之、不得止ヨリ一区ノ地ヲ与」えた所なので、「渡世ノ者二十名ニ相満、然上ハ向後願ノ義ハ聞届難相成」(前掲「御達書留」)と、新規開業不許可の達を出した。結局二大遊里とはいえ、台町は貸座敷数20軒ほどの規模におさえられていた。一方蓬莱町は、14、5年頃には貸座敷数も40軒前後を数え、「蓬莱町の繁華は芳原に比す」(『函館新繁昌記』上篇)といわれたように隆盛を極めた。
 函館県時代に入ってまもない16年に規則の改正が行われ、営業指定地として蓬莱町・台町のほかに台町周辺の天神町と駒止町が追加され、数か月後にはさらに温泉地の谷地頭も加えられている。

明治18年頃の貸座敷いろいろ 明治18年『北海道独案内 商工函館の魁』より


明治18年頃の貸座敷いろいろ 明治18年『北海道独案内 商工函館の魁』より


明治18年頃の貸座敷いろいろ 明治18年『北海道独案内 商工函館の魁』より


明治18年頃の貸座敷いろいろ 明治18年『北海道独案内 商工函館の魁』より