上山村

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 神山村は最初上山村と書かれ、文献上では天明四(一七八四)年の『北藩紀略』に初めて上山村の名が見られるが、貞享元(一六八四)年ころから居住者があり、その後約百年間に村が形成されたようである。
 『各村創立聞取書』のうち「渡島国亀田郡神山村自起原沿革調」に、
 
  一 当村開創ハ距今貞享元(一六八四)年則百九十七年前、当村平民佐々木佐四郎ノ祖佐四郎ト云者南部七戸ヨリ移住シテ農業ヲ営ミ、荒野大ニ墾リ、居地ヲ山ノ上ニ建築シ、又吉村七兵衛ノ祖七兵衛モ元禄七年移居シテ山ノ上ニ家屋ヲ建テ、共ニ開墾ニ力ヲ入ル。後平田松右衛門ノ祖松之助、菊谷弁太郎ノ祖弁之助、元禄十二(一六九九)年各南部地方ヨリ移住シテ上ノ山ニ居宅ヲ建、開墾ニ従事シテ畑五反歩ヲ新墾シ後元禄十三(一七〇〇)年越田三之丞ノ祖三之丞ト云者、越後ヨリ移住シ、此山ノ上ニ居宅ヲ初メテ建築シタルヲ以テ上山村ノ名有。後徳川家ニ於テ当村へ東照宮ヲ御宮ヲ新ニ建築シテヨリ神ト云字ヲ以テ上ニ換へ神山村ト改名シ
 
 と記されており、この記録を見ると村の住民は農業を専業としているかの感を受けるが、後代の『蝦夷日誌』に、「山稼又漁猟の節は海辺へ下り出稼する也。」と書かれているように半農半漁というのが実情のようである。
 寛政九(一七九七)年の『蝦夷巡覧筆記』は、「上山村、馬アリ産物雑殼、水ワルシ。当所ノ中道ト申処左手ノ野道行キ、夫ヨリ川アリ幅三、四間、夫ヨリ少シ野道」と記し、天明六(一七八六)年の『蝦夷拾遺』は「上山村五十戸不足、二百七十人余」と当時の状況を記している。