前松前藩時代に試みられた亀田地域の農業は、天明の飢饉や松前藩の農業政策のまずさのために失敗し、『渡島国状況報文 亀田村外六村』に、「水田ノ如キモ文化ノ初メ村民ノ開発セル所、大字鍛冶村ニ七町歩、大字神山ニ六町歩アリタリ。然レドモ水田ハ凶作多キガタメ殆ント廃絶シテ畑作ヲ主トシ、副業トシテ漁場ニ出稼シ、或ハ運輸ヲ事トシ、或ハ薪ヲ採リ、炭ヲ焼キ、以テ生計ヲ営メリ。」と記されるような状況であった。
このようなおり、箱館奉行所は箱館近郊の農業開発に乗り出し、各地に御手作場(奉行所直営の開墾地)を設けた。すなわち安政二(一八五五)年、庵原菡斎が開墾した亀尾で稲、穀物、野菜、果樹などを本州から求め、試作したところほぼ良好の成績を得たので、これに力を得た箱館奉行所は、菡斎の開墾地を御手作場と名付け、菡斎を指導者として箱館近郊に御手作場を増加させて行く政策をとった。