松川弁之助の開拓

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松川弁之助肖像

 こうした情勢の中で安政三(一八五六)年、越後出身の松川弁之助は赤川村字石川沢に御手作場を開くことを箱館奉行所に出願し、許可を受け、越後出身者を中心に開拓を進めることになった。
  『蝦夷地御開拓諸御書付諸伺書類』(新撰北海道史第五巻史料一)には、
 
  箱館在赤川村の内字石川沢は、水路利便も宜場所ニ付、右弁之助え申付、農夫繰入、一時小屋掛料、農具代等被下、夫食代は、人別に応じ三ケ年程を限り被下方取計、追々開発為致候処、最寄村々百姓共の内にも右を見習、且は漸々の教諭ニ寄、農事ニ進候心底の者も出来致候へども、全草莽荊蕀の原野を致開発候儀ニ付、身元相応のものは格別、其日稼の者ニ至り候ては、差向活計ニ差支、無余儀魚漁稼に罷出候者も有之候間、右様のものは、繰入農夫え被下候御手当の半減程を以、右石川沢え移住為致、(中略)御手作場石川沢の儀も、追々開発も行届、去ル午年中家数拾五軒出来、全く一村落ニ相成候間、石川郷と相唱、一村立ニ申付
 
と当時の石川郷の状況を記している。また、『松川弁之助君事蹟考』では、
 
  一 箱館糞尿を山に捨、海に投せしに、弁之助手人に汲取らせて石川沢新村苗代の肥に用ゆ。これ箱館近在田畑に下肥を用ゆるの始めなり。大野一の渡り文月辺は寛政度の開発なれば是等のことは疾備はれり。
  一 石河沢に自費を以て用水の溜池を作り、手人を遣はし新田を開墾す。此費官より半を賜ひ、其後は皆官費となる。北夷地諸用繁き由を申せしかば、相馬衆の引受と為る。此村現存せり。
 
 と記されており、松川弁之助箱館奉行所の援助を受けながら、糞尿の利用、かんがい用溜池の建設、新田開拓によく努力した様子がうかがわれる。しかし、残念なことに、弁之助は北蝦夷地の諸用が多く、やむを得ず後に相馬藩に開拓をゆだねることになったのである。『村垣淡路守公務日記』(大日本古文書、東京大学)には、石川沢御手作場の費用として幾度も金子を弁之助に渡したことが記されている。