いつころから年寄の制度が施行されたものか、つまびらかではないが、『逢坂氏日記』には宝暦十一(一七六一)年に年寄善右衛門の名が見られ、更に明和五(一七六八)年の記録には、名主十左衛門、吉右衛門。年寄、半兵衛、彦左衛門、九八郎。小使善蔵、甚吉の名が記されている。更に『寛政十年家中及扶持人列席調』には、
亀田村御番所勤 榊 太郎左衛門 村岡清九郎
年 寄 井口兵部(ママ)右衛門 逸見小右衛門 佐藤半兵衛 蛯子武兵衛 蛯名吉右衛門
小 使 白鳥由右衛門 猿田荘蔵 川村新左衛門 余田善兵衛
手代足軽 山田新五兵衛 大坪九兵衛 村田甚兵衛 稲川半左衛門
以上のように亀田村御番所の勤務者を記している。小役又は小使といわれるのは奉行所(亀田番所)の奉行―下代―名主―年寄―小使―手代足軽の職列の中にあって、奉行以下年寄までの仕事を補助する者と考えられ、亀田番所に常勤していたものであろう。また手代足軽は、奉行所の雑事及び警備の意味を兼ねて配置されたものであろう。ここには記されていないが、このほかに村には小頭が置かれていた。古い時代の文献が乏しくいずれも推定の域を出ず、この面はこれからの研究にまたなければならない。