箱館港の警備

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 安政二年三月より正式開港の運びとなり、安政元年六月箱館奉行が設置されたのであるが、外国船が起す不測の事態に備え、幕府は安政元年八月津軽、南部の両藩に万一の事態が発生した場合は直ちに救援せよと命じ、松前藩には、海岸線の警備を厳重にせよと布達していた。
 このような情勢の中で安政元年十二月竹内保徳堀利熙の両箱館奉行は、箱館の警備に関して幕府に対して次のような事項について具申した。すなわち、箱館付近砲台の実用砲の採用、台場の新設と改良、海軍の充実、千代ヶ岱、有川陣屋の構築及び奉行所、役宅の亀田奥への移設などであったが、それは当時台場に設置されている砲はまことに旧式砲であり、外国船の塔載している新型砲には抗すべくもなかったからである。
 『箱館夷人談』によれば
 
  アメリカのもの四・五人山瀬止の台場に至り、大砲を視て甚嘲弄し、両手を少しく開ひて日本ポンと云て笑ひ、又両手を大にひろひ(げ)てアメリカドヲンと云て鼻をつまみ面をしかめて驚畏の仮做(ミブリ)し、又我が大炮一とたび放さば箱館忽ち微(ミ)塵になるべき手話(テマネ)をし、又此台場の大炮を指て禽を唬(ヲトス)によかるべきなど手業して侮弄云ばかりなしと云へり。
 
 と当時の様子を記している。
 また台場の設備が軽装備で土塁などの改良の必要があること、海上防備及び緊急時における援軍輸送手段確保の面から海軍の充実、更に港内より一望され、防御設備のない奉行所、役宅を防衛上の見地から亀田奥(中道・鍛冶付近)に新設しようとしたものであった。