『岡山藩記』では「亀田村新道台場」、『慶応出軍戦状』(復古外記 蝦夷戦記)では「五稜郭新道台場」「瓦野台場」と呼ばれており、榎本軍側の記録『幕末実戦史』では「亀田新道の陣屋」と称されている。
亀田新道とは、江戸時代より現在の日産化学横から亀田小学校わきを通り、五稜郭裏、同心長屋方面に抜ける道である。また、「瓦野」あるいは「瓦場」とあるのは、現在の旧専売公社工場裏から亀田病院裏手に至る高台一帯で、安政四(一八五七)年から金子利吉、慶応二(一八六六)年から平一によってかわら(瓦)が製造されていたために付けられた地名である。従って「亀田新道台場」とか「瓦野台場」というのは、存在する場所の名が付けられたものである。
なお、文献的には、亀田新道台場と瓦野台場が区別されているが、位置的に瓦野台場がはっきりしない。おそらく旧専売公社裏あたりにあったものと思われる。建設時期は前記『函館戦記』によれば、「五月朔日亀田原上ニ壁ヲ三カ所築キ、其地各処ニ小壁ヲツキ四斤砲数門ヲ備ヘ」とあり、更に同書によれば構築に使役された者について次のごとく記している。
「去冬函港ニテ支那人四十一人(同書前出四十四人)一艦ニテ乗リ来ル。故アリ之ヲ囚シ艦ヲ預リ、四十一人津軽陣屋ニ囚シテ日々土方ヲナサシムトコロ急務ニヨリ、矢不来或ハ亀田等ノ胸壁我工兵方ト共ニ同ク之ヲ築ク」