駒ケ岳噴火救援

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 昭和四年六月十七日午前零時三十分ころ、道南の秀峰駒ヶ岳は、夜空に大火柱を吹き上げ大爆発を起した。しかし、その後は異状なる噴煙を吹き上げたり、かすかな地鳴りが聞こえる程度であったが、午前十時ころ一大鳴動と共に再度大爆発を起こし、上空は黒煙と火口から吹き上げる火山灰で真っ黒になり、五〇キロ離れた亀田村にわずかながら灰が降る程であった。このために鹿部村、臼尻村は多大な被害を受けた。死者二名のほか、重軽傷四名、その他住宅、家畜、田畑、牧場、山林、水産、鉄道、送電線など約八四〇万円ほどの被害を受けた。被害町村も前記二村のほかに尻岸内村、椴法華村、尾札部村、七飯村、森町、砂原村などにもおよんだ。
 地鳴り、山鳴りとともに灰降りしきる危険な中を、当村では他町村に負けじとばかり消防組員五〇名をもって直ちに噴火救護応援部隊を編成し、鹿部村救援に向かった。

降灰石の区域

 火口より吹上げる火山灰は想像以上に激しく、灰に埋れ孤立した鹿部村村民救出のため、組員は軍川よりわらじばきに腰弁当の姿で一〇キロ離れた鹿部まで徒歩で向い、途中で二班に分れた。一班は灰に埋まった人家の発掘に努め、他の一班は飲料水確保のため爆発、地鳴り、降りしきる灰の下で、火口より吹き上げる大火柱を仰ぎながら我が身の危険をも顧みず、消防組員として井戸掘りに二昼夜専念した。その結果、三か所から地下水を汲みあげ、飲料水を供給し村民に非常に喜ばれた。
 昭和五年には天皇陛下初の北海道御親閲の際、亀田村消防組より池田音右衛門、本谷勝太郎、佐藤某の三名が旭川市の御親閲大会に参加出席した。