釜谷鉄道をめぐる動き

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 木古内、江差間など渡島半島西海岸を走る鉄道建設が比較的順調に推移する中、釜谷鉄道は昭和三年の函館運輸事務所の調査以降目立った動きがなかった。このため早期の着工を期する「釜谷鉄道速進有志大会」が昭和九年七月一日、湯川、銭亀沢、尻岸内椴法華、戸井の五村長主催により戸井村日進小学校で開催されている(昭和九年六月二十七日付「函日」)。
 この大会では釜谷鉄道の速成を期して、国防上の観点から函館、青森間の補助航路としての釜谷、大間間の航路開設問題と釜谷鉄道をとりあげ、さらに釜谷鉄道を尻岸内椴法華まで延長し、将来的には茅部尾札部臼尻、鹿部へと延長して私設鉄道砂原線と接続させると、既設函館線と結ばれるので東環状線が作られるから、運輸交通機関としての機能を発揮できるとする「宣言」が可決された。同時に決議として「国防並本州との連絡交通の重大性に鑑み釜谷鉄道の速成を期す」こと、「道南開発の現状に鑑み釜谷鉄道予定線を亀田郡椴法華村に至る間延長せむ事を期す」ことが可決された(昭和九年七月二日付「函新」)。大会での主張は、国策として釜谷鉄道を将来的に対本州連絡鉄道と位置付けた上で、順次線路延長を計って、渡島東海岸に鉄道網を形成するべきだという視点から釜谷鉄道早期実現を計る考え方といえるだろう。
 しかしながら、釜谷鉄道の運動経過は昭和九年七月三日付け「函館新聞」によれば、軍事的な鉄道線として国策上、いつの日か敷設されるという他力本願的な空気が地域住民の中にあり、今一つ住民運動としての盛り上がりに欠けたものであったことがわかる。