道南で唯一未着工であった釜谷鉄道は、昭和十年十二月に開催された鉄道省議で函館、戸井間鉄道として翌年度の着工が決定された(昭和十年十二月十二日付「函日」)。昭和十一年四月十一日付け「函館日日新聞」にも昭和十一年度の鉄道特別会計実行予算に同線の着手が計上されたことを伝えている。
この時期、建設着工が決定した釜谷鉄道の概要について記述されたものが昭和十一年五月の『函館商工会議所月報』に掲載されている。これによれば概要とともに釜谷鉄道を「釜谷線と一口に言い習はせているが事実は戸井線という方がほんとうである、亀田郡の湯の川、銭亀沢、古川尻、石崎を経て釜谷村に至る最初の建設計画……それは地方民の勝手な計画だつた……がこの線の固有名詞となつたものに過ぎない」としてはじめて戸井線という名称を使い、釜谷までの建設では価値がなく将来的に渡島環状線への土台とすべき線であると述べている。
さらに沿線各村落の「現勢」とそれを基にした開業後の鉄道輸送見込数量、旅客人員についての算定をした上で、釜谷鉄道の経済上の価値は低く「国防上軍事的価値」から必要な鉄道であるとしている。また「道南半島の南端一帯を環状線につつむ最初の有効なる建設でありその実現の暁にはこの線から椴法華、尾札部、鹿部に出て大沼電鉄と連絡し更にこれから砂原に通じて本線森駅に達するものの実現につとめねばなるまい」と結論づけている。しかも釜谷鉄道が「国防整備上という好個の目標と軍部の積極的從慂によって急速に実現することとなり予算計上にこぎつけたとみるべきである」とも述べているから、将来的には路線延長による波及効果も含みながらも、この時点での釜谷鉄道建設の主目的が沿線の経済発展ではなく、国防軍事上であることが明確になったといえるだろう。