六〇〇〇年前の海面高頂期以降、海水準は微変動を繰り返しながら、僅かに低下して今日に及んでいる。その間、函館では東西両方向から函館山に向かう沿岸流により、大野川や松倉川から吐き出される土砂や銭亀沢の海食崖からの砂が運搬され、徐々に砂州が拡幅した。特に大野川の河口から東側には函館山の麓に収束する三列以上の浜堤群が認められる。
これらの砂州の成長とともに、その砂を母材にした砂丘の形成も進み、もっとも大きな砂丘(大森山砂丘)がかつて大森浜に見られた。この砂丘は、海岸に沿って長さ約一キロメートル、高さ三〇メートル近く、幅三五〇メートル程度の規模(瀬川、1980)があったといわれるが、昭和三十年頃からの砂鉄や砂の採取によって消失した(昭和二十三(一九四八)年に米軍が撮影した四万分の一空中写真によって、その形状を伺うことが出来る)。函館湾側の海岸線は、幕末に弁天台場や外国人居留地が設置されたのを皮切りとして、戦後に至るまで、次々に埋め立てられ、六〇〇メートル程度であった砂州の幅は狭いところでも一キロメートルにまで広がった。一方、大森浜では、逆に海岸侵食により砂浜の狭小化が進行している。
以上、函館の過去一二万年間の地形発達の画期を、かいつまんで素描した。このような環境変遷の総和として、現在の函館の自然環境配置がある。函館の西部地区に坂が多く、しかもその途中に、病院、寺社、学校など大きな敷地を持つ施設があるのは、ここが単なる山麓斜面ではなく、函館の自然環境変遷を忠実に反映した海岸段丘が狭いながらも階段状に並んでいるからである。五稜郭が今の場所に設置されたのは、その位置が、地形的に見れば大森浜の砂丘や函館段丘に隠され、しかも亀田川扇状地の扇端部にあって地下水面が浅く、水を張った堀を巡らせることが容易であったためとも考えられる。大手町や豊川町の地盤が埋め立て地であるために軟弱であるのはもとより、ここ二〇年ほどの住宅地化が急激な本通付近も、古砂州形成期以来の後背湿地であることを知れば、地震時の対策をしっかりと取らねばならぬ事も分かる。氷期の海面低下期に銭亀沢に見られた噴火口は、わたしたちにとって、もはや危険はないのだろうか。自然環境の変遷をより正しく知ることは、地域において人びとが安全、快適に生活してゆくためにも大いに役立つことであろう。
ここで述べたことは、現在得られている資料をもとに函館の地形変遷を描いたラフスケッチであり、今後、新たな情報の出現とともに、手直しされていくべきものである。