近代の妙応寺

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大正期の妙応寺(北海道立文書館蔵)

 明治五(一八七二)年、明治政府の「神仏分離」策を推進するため、神官菊池重賢が地内を神社調査した折、この妙応寺にも足を踏み入れた。日蓮宗の寺院には、壇家の菩提寺とともに、もろもろの祈願などをする祈祷寺もあることを考慮したからであろう。なぜなら、石崎のほかの浄土宗の念称庵(大願寺の前身)や、求道庵(勝願寺の前身)には、神官菊池は出向いていないのである。
 前出の「壬申八月・十月巡回御用神社取調」によると、経石庵では、「当壬申ヨリ凡五十年前」、つまり文政五(一八二二)年頃から、妙見・鬼子母神を私祭しており、日蓮宗独自の「法華神道」ともいうべき「三十番神」入りの過去帳が経石庵にはあったが、「神仏分離」の政策に照らして、この神号を至急切り抜くよう処置した。さらに当時の住職佐藤照稟は、自分で作った今上皇帝と征夷大将軍の位牌を併置していた。この調査の一部始終については、本寺の実行寺に書面で申し出るよう命じて、菊池の取り調べは終了したという。
 この史料は、銭亀沢における「神仏分離」政策の実態を伝えるものとして、非常に大切である。銭亀沢における、まさしく「神々の明治維新」を知る唯一の史料である。経石庵に祭られているものは、妙見といい鬼子母神といい、加藤清正の掛物といい、それらはすべて日蓮宗寺院に安置されるもので、これらは、なんら驚くに値しない。それよりはむしろ、天皇と将軍の位牌を併置していることが奇異であるし、なによりも特筆すべきことは、「三十番神」の神名を過去帳から切り抜くよう命じた点である。
 前にみたように、湯川・湯倉明神の神体をめぐる神仏分離においては、神社側には相当根強い神仏習合に由来する土着主義が色濃くみられていた。神社側の保有する仏像に対しては、比較的寛大であるのに対し、この経石庵のような寺院の保持する“神道”的なものには、かなり厳格な指導があったことを、この経石庵の神仏分離は物語っている。
 明治十二年九月二十六日、この経石庵が庵号を改めて「日持山妙応寺」と寺号を公称したい旨の願書が開拓使へ「奉願」され、翌十月四日に「聞届」けられた(「庵号改称願」妙応寺蔵)。
 日持を開基とするこの妙応寺は、明治に入るとなにかと世人の耳目を驚かすことが多くなった。日清・日露戦争をステップに、政府の推進する海外進出策は社会的にも受容されつつあったから、この「海外伝道者」日持のことがより一層、世の注目を集めたというべきであろう。
 明治初年の「神仏分離」による「冬の時代」を経たのちの仏教界は、明治中後期における国家の海外進出の動向などともからみあいながら、「国家神道体制」の下で、みずからの社会と宗教界とにおける地位を手にしていくのである。その意味で、妙応寺は、「海外伝道者」日持の開基であることから、日蓮宗の単なる霊場だけにとどまらず、海外進出を背後から精神的に、後押ししていたといえようか。昭和期に入り、「満州事変」を機にして日中戦争が勃発するや、なお一層、日持は人びとの心を捉える機能を果たしていった。