磯漁

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 津軽海峡前沖での磯漁は、長崎俵物として江戸時代に中国に輸出された干アワビや、主に関西に出荷された昆布などが主な産物としてあげられる。
 アワビは両地域共三本ヤスを使用して突いて取り、塩を入れて煮たものを干して干アワビとして出荷していたが、戦後、生アワビとして出荷するようになるとヤスで突いたものは、貝や身に傷がつきすぐ死ぬため商品価値がなくなることから、岩手県三陸地方で明治二十年代に考案されたカギを導入するようになった。
 このカギは、鋼鉄製のフック型のカギに弾力のある竹などを根本につなぎ、それに長い棹をつけ磯舟などで前沖に出漁し、箱メガネとよばれる板箱の底部に板ガラスを張ったものを口にくわえながら、海底をのぞき、カギの先端をアワビの貝の内側に引っ掛けて捕獲する漁法である。
 また、現在では磯漁に欠くことのできない道具として、箱メガネ(ガラスともいう)があるが、明治十五年頃から二十年頃にかけて津軽海峡を挟んだ両地域にたちまちのうちに普及したものである。これは、函館にガラス工場ができたことによるものであり、各地に伝えられた。それ以前は、アワビのウロ(キモ)や白絞油、ナタネ、木の実などを口に含んで海面に吹き付けて海底の獲物を探していたのが、このガラスの普及により、それまで以上に深いところの獲物を捕獲することが可能となり漁獲量が飛躍的に増加した。このことは、『風間浦村誌』(前掲書)「漁撈」に、同村に伝えられた経緯が次のように記されている。
 
  明治十五、六年頃、易国間の漁師川島福之助と云ふ者北海道の礼文、利尻へ出稼ぎして、漁撈に硝子の眼鏡函を使用する事を覚えて戻り、初めて鮑突きに是を応用したるが頗る便利にして、而も以前よりも深き個所を突得て漁獲も多き為めに、村中一統之を使用するに至りたるが、忽ちの間に隣村にも普及して、遂に郡内を通じて使用されるに至った。
 
 この箱メガネが、逆に三陸沿岸に明治二十年代から大正期にかけて伝えられたことにより、カギの使用が始まったという。まさに、函館のガラスがもたらした画期的な漁法といえよう。
 しかし、下北半島では戦後カギを導入したが定着せず、旧来の三本ヤスを使用しているが、これは生アワビとして出荷するよりも旧来の干アワビとしての需要があったことなどが影響したものと思われる。なお、下北ではカツギと呼ばれる海士(あま)による潜水漁法が古くはおこなわれており、菅江真澄の「まきのあさつゆ」(『秋田叢書別集菅江眞澄著作集第六』昭和八年)に、次のように記されている。
 
 此里の海士鮑のかつきするに、おのれおのれか、ふとしに、つり糸付て小鯛つる。これを腰つりとて、上手へたのならいありなと、とひ入てあわひかつき、いきもつきあへす、つりたる魚ともをとりぬ。
 
 寛政の頃の、風間浦村下風呂での潜水漁法によるアワビを捕る際に、ふんどしに釣り鉤を付けて小鯛を釣ったようすが分かる。
 また、『佐井村誌』(笹澤善八 昭和十二年)の「漁業」に、アワビ漁に刺し網を明治十八年に考案して使用したことが、次のように記されている。
 
  佐井、奧戸、大間の三ケ所にては鮑漁に指網を使用する。鮑捕の指網
  は奥戸の小林唯八氏が、父祖の考案を継承して発明に苦心し、父子三代
  に亙って完成したものである。
 
 しかし、この漁法は大量にアワビを捕獲してしまうことから、資源保護のために中断された。
 また、ウニも同様であり三本ヤスで突き剌す漁法から、三本ヤスでも間隔を広げた改良三本ヤスで挟む形態に変化している。福島町では、ハサミも併用している。これも、生で出荷したり、養殖するようになってからのことである。
 コンブは、両地域共マッカと呼ばれる弾力性のある二本の木を木製のホコと呼ばれる棹に結わえたものや鉄製のネジリを、コンブに巻き着けて引き上げる漁法や、マッカと呼ばれる二股にした木や鉄で作った漁具を、船で海底を曳いて採取する漁法が現在でもおこなわれている。また、菅江真澄の手になる寛政年間に函館の東方から福山までの海岸部の紀行文と昆布取りの道具の図集である「ひろめかり」(前掲同著作集第五 昭和七年)にも、
 
  津軽郡三馬屋、今別のはまに採るも凡似たり。南部のうらうら斯都介利、自離夜にては、繩てふものさらにひかす。ひとりとび入り、うなのそこなるいはを、ととふみて、その足のちからしてうきづる、かつきかりあり、もとも、あさき磯に刈りくにや。この島人は、をさなきより昆布のわさにのみたつさわりて、潜男あまた集う。へたこんぶとて、四尋、五尋、六ひろ、なゝひろのふかさをはかり、あら汐のそこをたとりて、われかちに鎌たてて刈りめくり、身のかくろふまてかゝへてかつきあげ、いとふかきところは、三尋の柯をあはせて十尋、十二尋と、繩もてゆひつぎ、つぎめつぎめに蟬とて、みき、よきのくさびをさし、つぶいしとて、重さ一貫泉零の石を付て錘とし、柯の重さ五十斤、六十斤もあらんを、いとちいさき舟の上にとりてさしくたし、いくもとの昆布をからみ根こして、根には折として、大なる石つきながらひきあけてけり。さらぬたにおもさ百斤に余るを、水のうちにかけたりとも、ひとりのちからしてとりをさむるのわさ、おもひやるへきことにこそ。
 
 と記されており、昆布の潜水漁法に関する道具も二、三描かれている。それは、潜頭巾、潜鎌などであり、これにより北海道沿岸においても潜水漁法がおこなわれていたことがわかる。また、船上から使用する鉤やマッケなどを三〇数枚描いているが、現在でも同様の漁具を使用している。

図4・8・3 コンブ採りの道具(『菅江真澄著作集第5』より)