1、恵山式土器文化

322 ~ 328 / 1483ページ
概要  遺跡が海岸線に面した砂丘上や段丘上に立地し、恵山貝塚や尾白内貝塚のような貝塚(写真7)をともない、漁労、海獣狩猟用の骨角器が多く出土することから、恵山文化の人々は海洋での漁労・狩猟を主な生業としていたと考えられる。また、しばしば内陸の低位から中位の段丘上で土器片や炉跡などが発見され、高度の漁労・海獣猟の技術をもって水産資源を利用しつつも、植物採集や陸獣猟も行っていたと推定される。
 初期には道南に遺跡の分布が限られるが、中葉には道央の石狩低地帯付近まで分布域を拡大するとともに、土器は日本海側を北上し礼文島や稚内周辺まで達し、後葉になると遺跡の分布が再び道南に限られるようになる。
 石狩低地帯以南の上磯町下添山遺跡や奥尻町東風遺跡、白老町アヨロ遺跡、苫小牧市タプコプ遺跡などの遺物包含層や遺構内からソバ属花粉が検出され、ソバなどを栽培する畑作農耕が行われていたことが明らかになっており(山田、1992)、水田稲作の痕跡はまだ発見されていないが、穀物を栽培する技術は確実に北海道内に達していた。

7、恵山貝塚の貝層断面
(恵山貝塚、昭和36年、吉崎昌一撮影)

 
土器  縄文時代に煮炊き用として使用された深鉢形土器に加えて、弥生式土器の影響で出現した長頸甕が主体となる。甕形、深鉢形、浅鉢形、壷形、台付鉢形や、特殊なものとして注口付土器、双口土器、ボール形、カップ形などの器形があり、地文として斜行縄文が用いられ、新しくなると縞縄文が多用される。文様として刻線文や沈線文、刺突文、磨消文が用いられ、沈線文は3~10条が平行して横あるいは鋸歯状に施されることが多い。ボール形やカップ形土器は弥生式土器にはみられない器形で、把手や口縁部に熊のモチーフが飾り付けられる場合がある(第45図1~5)。ボール形やカップ形土器は古い時期にみられ、新しくなるにつれて器形が単純化して器種も少なくなる傾向がみられるなど、時期によって器形の組み合わせが変化する。石本(1984)によった土器の編年では、次のように4期に区分されている。
 
 1期:青森県の弥生文化前葉の二枚橋式土器に対応した、亀ケ岡式土器の伝統を強く残した変形工字文が特徴で、甕、短頸甕、鉢形、台付浅鉢型土器などからなる(第46図1~5)。下添山遺跡、瀬棚町海岸砂丘遺跡などから出土するほか、恵山貝塚からも出土。
 
 2期:青森県の弥生文化中葉田舎館式の古い時期や宇鉄Ⅱ遺跡出土の土器に対応した、波状工字文や変形工字文、変形工字文に由来した3~4条の沈線を重ねて鋸歯や波形が施文された土器が作られた(第46図6~13)。甕の頸部は長大化するとともに直立し、そこに無文帯を幅広く残すものとなる。ボール形やコップ形土器、把手付鉢や丸底の鉢が作られるのはこの時期で、浅鉢、鉢形や壷形など多様な器形の土器が作られた。遺跡数が増加して石狩低地帯付近まで分布する。恵山貝塚、尾白内遺跡が代表的な遺跡である。
 
 3期:瀬棚町南川遺跡の住居址や墓、アヨロ遺跡の墓からセットで出土した南川Ⅲ群、アヨロ2類b土器が相当し、器形の変化が少なくなり、甕、鉢形、壷形土器が主体となって、平行沈線文と鋸歯状の沈線文で特徴づけられる(第46図14~19)。この時期の土器も石狩低地帯まで分布し、札幌市N295遺跡などの土壙墓や住居内から出土している。
 
 4期:南川遺跡出土の南川Ⅳ群土器が相当する、横走ないしは波状を描く沈線で縁どられた中に、帯縄文という特殊な縄文が施された土器である(第46図20~29)。この時期の土器も石狩低地帯に分布するが、作られた土器が移入品として持ち込まれていたらしい。

第45図 恵山貝塚から出土した恵山式土器
大場利夫・千代肇「周辺地域の情勢 北海道」『日本の考古学Ⅲ弥生時代』河出書房新社、1967


第46図 恵山式土器(1~5、1期:二枚橋式、6~13、2期:田舎館式、14~19、3期:南川Ⅲ群、20~29、4期:南川Ⅳ群)
梅原達治編『北海道における農耕の起源(予報)』1982、千代肇ほか『西桔梗』函館圏開発事業団、1974

 
道具と生業活動  恵山貝塚からは精巧な彫刻が施された装飾品、日用品、銛や釣り針といった漁労具などの骨角器が出土している。精巧な彫刻が施された骨角器は石器だけではなく金属器を用いて製作されたと考えられ、恵山貝塚、森町尾白内貝塚からは鉄片が出土していて金属器の渡来を物語るが、相当な貴重品であったと考えられる。
 金属器の使用が始まっても、主となった道具はやはり石器であった。石鏃、スクレーパー、石銛、石斧、靴形ナイフ、石錐、魚形石器、砥石があり、縄文時代後半にみられた呪術的で非生産的な石器は姿を消す。
 石鏃は薄くて幅が狭く長い鋭利さを増したものとなり、骨角製離頭銛の先端に装着されたと考えられる石銛は石鏃よりも幅広につくられ、銛先の刺突効果を高めたものとなっている。縄文時代晩期に祖形があった、柄がつけられて万能ナイフとして利用された靴形ナイフは(第47図1~3)、基部と刃部の間に関がつけられた一種の小刀で、この時期に多くみられる。石斧は、これまでは両刃石斧が多かったのに対して、片刃石斧が圧倒的に多くなる(第47図4~6)。扁平なものは刃と直角に柄が付けられて、木材を削ったりえぐったり割ったりする手斧として、柱状のものも同様に柄が付けられてノミのように木材をえぐる用途として、狭長なものは細部加工用のノミとして用いられるなど、使用目的によって異なった形態の石斧が使用されていた。このような木工用石斧の普及は木製容器や木製の道具が数多くつくられていたことを物語る。
 恵山文化に特有のものとして、軟質の石でつくられ、形が魚に似ていることから魚形石器とよばれている石器がある(第48図1~3)。魚形で尾部側ないし胴部中央付近に溝が刻まれ、頭部端から全長の4分の1~5分の1付近にあたる最も太い部分に溝がめぐるものについては、擬餌と錘をかねた(テンテン釣り)結合式釣り針の軸部と考えられている(上野、1994)。西本(1981)は、道南の遺跡では体長1メートルに近いヒラメを獲っていることから、遺跡から出土するL字形の釣り針や魚形石器はヒラメ漁に使用されたものとしている。
 恵山貝塚から出土した骨角器については後述するが、骨角器には熊やイルカ、海獣などが彫刻されたものがありこれらの動物が狩猟の対象となっていたことを示している。

第47図 靴形ナイフと石斧(1~3、靴形ナイフ、4~6、片刃石斧)
千代肇ほか『尾白内』森町教育委員会、1981


第48図 魚形石器
高瀬克範「恵山文化における魚形石器の機能・用途」『物質文化』60、1996

 
住居と墳墓  この時期の住居跡の発見例は少なく南川遺跡、室蘭市絵鞆岬遺跡、千歳市ウサクマイC地点遺跡、江別市旧豊平河畔遺跡などで知られている程度である。平面形は円形で、床面中央に石囲いの炉または地床炉があり、壁に沿って小さな柱穴が配列される。恵山文化の新しい段階の南川遺跡や旧豊平河畔遺跡の住居址には、入口と考えられる舌状の張り出し部分が造られる。第49図は旧豊平河畔遺跡で発掘された住居跡をもとにした推定復原図である。舌状部をもった住居は道東では続縄文時代の古い段階にみられるが、いまのところ恵山文化の古い時期の住居跡が不明で、円形の主体部は縄文時代の伝統を受け継ぎ、舌状部は道東の影響を受けたとされている。
 墓は恵山貝塚、南川遺跡、アヨロ遺跡などの調査から、その形態や埋葬方式が明らかになっている。墓壙は円形か楕円形のものが多く、その大きさから屈葬と考えられる。頭位は恵山貝塚で西北、南川遺跡では墓壙の長軸方向が北東−南西であったことから頭位もこの方向とされ、アヨロ遺跡では骨が残っていた墓では海の方向に足を向けたものとされている。縄文時代には配石があったり(写真8)ベンガラがまかれることが多かったが、この時期には石は用いられるが石組みがつくられたものは少なく、ベンガラがまかれたのも少なくなる。かわって、壙底に完形土器や石器が副葬される例(写真9)が多くなっている。南川遺跡では同一方向に尖頭部を向けた石鏃や石銛がまとまって発掘されており、着柄した状態で副葬された様相を呈している。墓壙の上部に土器が置かれる場合もあり、遺体を埋葬した後に墓前祭が行われていた可能性も強い。
 副葬品の中には、本州で特定集団の専門的工人によってつくられた、長さ3センチメートル前後、直径5ミリメートル程度の円柱状な碧玉製管玉や、生息分布が奄美大島以南に限られるイモガイで製作された腕輪、イモガイとゴウボラでつくられたペンダント、マクラガイの貝玉なども出土する(大島、1989)。どのような経路で渡来し、どのような役割を果たしていた人が身につけていたか興味あるが、詳細は不明である。

第49図 続縄文時代の住居復原図 『旧豊平河畔』江別市文化財調査報告書23、江別市教育委員会、1986


8、墳墓の上面の配石 (恵山貝塚、昭和36年、吉崎昌一撮影)


9、墓壙壙底に副葬された土器 (恵山貝塚、昭和36年、吉崎昌一撮影)