〈町長・助役・収入役〉

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第3代町長 野呂桂司(任昭和56年7月6日~退昭和58年2月15日)
 3代目町長に就任した野呂桂司の履歴については、収入役及び(教育編)教育長の項にも屡々記している。野呂が尻岸内村事務吏員として採用されたのは昭和26年7月1日、20歳の時である。以後、総務課庶務係・観光・消防係長、国保病院事務長、庶務課長兼企画課長を歴任、昭和41年7月一般職のトップ経済部長に就任したのが35歳、同50年7月には43歳で特別職の収入役に選任され、55年8月教育長就任、そして翌年の56年7月6日50歳で町長に就任する。町民は勿論、役場庁舎でも若い町長に期待するとともに、当時は管内的にも注目された首長の出現でもあった。
 当時の広報に“走り回る町長”と題し、シリーズで野呂町長の姿を紹介している。
 
 今度はサケ定置網船に乗る!十月二十六日未明、尻岸内漁港はもう躍動している。夜もまだ明けない暗闇に、ゴム合羽、ゴム手袋の防寒具に身を固めた野呂町長の姿があった。漁業の町尻岸内を支える漁師の皆さんの苦労を、町長自身の目と体にたたき込むため……。この日の水揚げ二千五百匹、今までの最高である。「町長、まだ来いや、オメ来たっけ大漁だ!」そこには、“町民の皆さんに快適な生活を”と日夜激しく身体を使って町内を駆け巡っている町長の姿があった。(シリーズⅠより)
 
 この“走り回る町長シリーズ”は、「町政懇談会・移動町長室で!生活環境の早期改善の強い要望を受ける」「歌謡愛好会、女那川地区に誕生! 町長、自慢のノドを披露」などなど、野呂の硬・軟両面にわたり町民と接する姿が描かれている。
 野呂町長は昭和58年2月、新年度の予算折衝のため出札、帰途体調を崩し入院、治療に専念したが、2月15日容体が急変して帰らぬ人となった。
 52歳、町長1期目、志半ばでの野呂桂司町長の突然の死を全町民は悼んだ。
 野呂は広報「尻岸内」2月号に、雑感“プロの精神”と題した随筆を載せている。
 
 世の中には、生きる為にいろいろな仕事を本業にしている人がたくさんいる。私のいる町役場も、町民のために町民にサービスする“プロ”が集まって仕事をしている所だと思っている。即ち、町職員は行政の“プロ”である。……中略……役場の仕事をしている職員だって、その日だけ過ごせばいいと考えているものと、その立場の中で、専門的な勉強を積み重ねながら、一生懸命努力している者とでは、長い年月の内に大きな差がつくことは、はっきりしている。それだけに町職員の努力も大いに期待したいし、職場の長としての在り方についても、考えなければならないことは沢山ある。町民の皆さんのために、いい仕事ができるように、職員に研修の機会を与え、プロ精神の涵養に努めたいと思っている。
 
 奇しくも、これが野呂の町長としての町職員への餞の言葉になってしまった。
 
第4代町長 湊貞治(任昭和58年4月24日~退平成7年4月25日)
 4代目町長に就任したのは、野呂町政発足と同時に収入役を勤めた湊貞治である。
 昭和58年4月24日の町長選挙には、湊貞治の他、山崎勇次郎、斉藤賢三の両氏が立候補するが、湊は2,622票(山崎勇次郎 943票 斉藤賢三 849票)を得票し第4代尻岸内町長に就任する。以降、昭和62年4月23日恵山町長に(無投票)就任し、平成3年4月26日(無投票)再選、同7年4月25日任期満了まで、3期12年間町長職を務める。
 湊は大正15年9月字古武井に生まれ、戦時中の昭和16年、尻岸内村立古武井尋常高等小学校を卒業、昭和18年3月から2年間、日本製鋼室蘭製鉄所に勤務、後帰郷し一時尻岸内漁業組合に勤める。役場職員は昭和23年8月、書記補として採用され産業課商工係を振出しに、27年から税務課徴収係として勤務、2年間の土木建築係を除き、39年まで税務課徴収係長、税務係長など税務畑を長く勤める。39年には住民課長兼国保係長、40年国保病院事務長、42年には議会事務局長、44年再度の住民課長、建設課長、農林商工課長などを歴任し、56年収入役に選任され野呂町政のもとで勤め58年2月26日依願退職し、野呂町政の継続を訴え町長選挙に臨む。
 湊は町長当選後、町政の基本施策として、①町民といつでもどこでも話し合える行政・町民の痛さを肌身で知ることのできる行政 ②海と陸で働く場を求め生産を拡大し、暮らしが豊かになる施策 ③社会福祉を充実し、お年寄りに生きがいを、体の不自由な人に思いやりを ④町の将来を担うたくましい青少年を育成する教育の推進。⑤生活環境を整え災害や不衛生から町を町民を守るを掲げ、以降、湊のこの基本施策は変わることなく、町政を遂行した。
 
助役 成田武夫(任昭和56年7月25日~退平成7年5月15日)
 野呂町長の2年、引き続いて湊町長の12年、尻岸内町から恵山町へと、町政が発展、そして充実の14年間、2代の町長の補佐役・助役を務めたのが成田武夫である。
 成田は昭和12年5月字古武井の生まれ、28年尻岸内村立第二中学校(現東光中学校)を卒業、30年2月、尻岸内村書記補として採用される。33年4月北海道立自治講習所で1年間の研修を積み、翌34年3月修了、同年4月1日には書記に任じられ以降、庶務・財政・消防係、企画係、庶務係長、庶務・財政係長、44年主事補、45年主事・総務課長、50年建設課長兼建築係長を歴任する。この間、成田は手腕をかわれ46年広域市町村圏振興協議会・48年尻岸内町土地開発公社理事を兼務する。
 役場の要職を歴任、関係団体での経験を積んだ成田は、昭和56年、野呂町政発足と同時に助役に選任される。翌、58年には野呂町長急死後の湊町政の助役・補佐役として、事務執行のリーダーシップを執る。さらに、社会福祉事業統括事務取扱を兼務、61年4月からは新しい部門の地域活性化対策室長をも兼務する。
 平成元年7月25日恵山町助役再任、併せて恵山町土地開発公社理事を兼務、以降、平成7年5月15日辞任まで、湊町長の補佐役として町政を支え、行政事務執行に、企業誘致など地域活性化に奔走し、庁舎内からはもとより町民からも名助役としての評判が高く、惜しまれつつの退任であった。
 
収入役 荒木清吉(任昭和58年7月1日~退62年6月30日)
 湊町長就任の後、収入役に選任されたのは、議会事務局長8年勤めた荒木清吉である。荒木は大正14年2月の生まれ、昭和14年3月尻岸内尋常高等小学校を卒業、翌15年札幌鉄道局函館駅勤務、翌16年3月札幌鉄道教習所電信科入所、同年9月修了、以降、20年の1月から8月まで兵役期間を除き、終戦後の22年7月15日まで、鉄道局職員として函館鉄道電務部・電信係、木古内駅で電信・出札・貨物係などを歴任する。
 昭和23年7月、尻岸内村書記補として採用され商工係・総務課税財係・庶務・選挙係30年には消防係長、32年産業課振興係長、厚生労働係長・国民年金係長などを勤め、管理職としては39年2月町制施行の年、議会事務局長として諸案件を処理する。
以降庶務課長、総務課長、教育委員会・給食センター長、総務課長、50年再び議会事務局長に就任、58年7月1日収入役に選任される。豊富な経歴と町の要職を経た見識で収入役として信頼されながら昭和62年6月30日任期満了退職する。
 
収入役 山田 忠昭(任昭和62年7月1日~退63年7月31日)
 ベテラン荒木の後任として収入役に選任された山田は、収入役の前歴としては珍しい水産課長からの就任であったが収入役在職1年、相沢の後任として教育長に就任する。
 なお、山田忠昭については、後述、山田・工藤時代にその詳細を記す。
 
収入役 中森敏治(任昭和63年8月1日~退平成3年7月31日)
 山田の後任収入役に選任されたのは、総務課長の職にあった中森敏治である。
 昭和15年の生まれ、昭和34年、函館有斗高等学校(現函館大学附属有斗高校)を卒業、2年間民間会社(洋服製造卸業・洋品店)勤務後の昭和36年5月17日、尻岸内村書記補・産業課農林畜産係を振出しに役場職員の道を歩む。
 以降、総務課財政係、庶務課財務係長、選挙管理委員会事務局、総務課庶務・財務・企画係長を勤め、昭和48年には主事補となり企画室長兼選挙管理委員会書記長、国保病院医事係長、56年には税務課長、57年保健衛生課長、58年企画課長兼尻岸内土地開発公社理事を歴任、この年、自治大学校の研修を受け、61年4月1日より恵山町総務課長兼地域活性化対策室主幹・企業誘致担当を勤め、昭和63年8月1日収入役に選任され、任期1年を残し平成3年7月31日辞職する。
 
収入役 渡辺英治(任平成3年12月25日~退平成6年7月31日)
 中森の後を継いだ収入役は議会事務局長であった渡辺英治である。
 渡辺は昭和14年1月、恵山の生まれ、昭和29年尻岸内村立東光中学校卒業の翌年、昭和30年9月尻岸内村役場に書記補として採用され、以降、住民課国民年金・衛生係長、産業課畜産係長、産業課長補佐・水産係長、農林商工課長、企画課長を3回、教育委員会学校教育課長、選挙管理委員会書記長・農業委員会・監査委員会事務局長、税務課長、国保病院事務長、建設課長を歴任する。そして議会事務局長・監査委員会事務局長3年を勤め、平成3年8月2日収入役に選任される。
 履歴にも記したが、役場内でこれだけ豊富な行政経験をした職員は、渡辺を置いて他にないといわれ、収入役という打って付けの職務を3年間勤め上げ、平成6年8月3日惜しまれながら教育長に就任する。
 
収入役 野呂弘昭(任平成6年8月3日~退平成7年5月15日)
 野呂弘昭は中森、渡辺収入役よりは年配の昭和10年7月、字大澗の生まれ、昭和26年尻岸内村立第一中学校(現尻岸内中学校)卒業、昭和28年10月1日尻岸内村書記補として採用される。以降、税務課税務係、民生課国保係、税財課賦課徴収係、税務課国保係長・税務第2係長・村税係長など税務畑を長く勤め、昭和41年から税務部税務課長、住民課長、建設課長、水道課長、再び税務課長を歴任、56年には渡島東部消防組合派遣・渡島地区衛生処理組合派遣、62年には水産課長兼地域活性化対策室主幹を勤め、平成4年1月20日総務課長。そして平成6年8月3日、渡辺の後任として収入役に選任される。 野呂は税務畑が長かっただけに、期待されての就任であったが残念ながら体調を崩し、翌、7年5月15日辞職する。