戦後の飢餓状況と農業

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 昭和20年(1945)8月15日終戦となる。国民は戦争の恐怖から解放されると同時に飢餓状況に襲われた。日本中の農漁村の生産活動は、激しく長引いた戦争のため、もう限界にきていた。多くの働き手を戦場にとられ、田畑は残された年寄・女子供らの手で何とか守っては来たものの、壊れた農機具の補充は付かず、労力の牛馬は徴用にとられ、肥料はない、種子用の穀物にさえ手を付けざるを得ないといった、いわば自分たちの飢えを凌ぐのが精一杯といった状態にまで追込まれていた。まして、農地を持たない都市部の人々は惨澹たるものであった。連日、食料を求め、いくらかでも備蓄のありそうな農村をめざし出掛ける人々(これを買出し部隊と呼んだ)で、列車は超満員の状態となった。
 未曾有の戦争から受ける痛手は大きく、すべての平和産業は破壊され、生活物資は人々の前から姿を消し、当然の如くインフレーションに陥った。お金の価値は極端に下がり僅かな食料も、高価な着物や貴金属などとの物々交換でなければ手に入れることができなかった。しかし、折角手に入れた食料も、戦時下の統制経済はなお続いており、「闇(やみ)商品」として警察に没収されることもままあった。
 わが郷土の実情はどうであったろうか。敗戦の挫折感から生産意欲は減退し、ただでさえ多くの収穫は期待できなかったのに、追い討ちをかけるように、この年(昭和20年)はまたまた冷夏(函館の平均気温は観測以来最低で7℃を割る)に見舞われ、大豆・小豆・馬鈴薯など主要作物は大凶作(水稲も全道的な凶作)、人々は辛うじて海産物・山菜等で飢えを凌いだ。特別、裕福な水田地帯はともかく、全国の農漁村の殆どは、生産地といえども多かれ少なかれこのような状態であったと思われる。
 この食料難に、政府はGHQ(連合国最高司令官総指令部)の指示を受け、速やかに対策を講じた。翌昭和21年2月17日「食料緊急措置令」を公布、3月には貨幣を「新円」へ切り替え、物価統制を続けることにより、乏しい食料品の高騰を押さえる一方、アメリカ合衆国から小麦などの食料援助を受け、4月には一般家庭にこれを配布、また、栄養失調に陥っていた子供達を救うための援助食料による学校給食の実施等、これらが功を奏してか、恐れられていた食料難によるパニックは一応回避することができた。
 農業の立ち直りは比較的早かった。復員者(戦地から帰って来た人)の帰農が軌道に乗り、また、満州(中国東北部)、台湾、樺太(サハリン)等、外地から引き上げた人、旧職業軍人の中には開拓地を求め農業に従事する人も相当数に上った。これに拍車を掛けたのが、昭和20年(1945)GHQの指令によりおこなわれた農地改革である。
 
農地改革  農地の所有制度の改革。第2次世界大戦後、昭和22~25年(1947~50)にかけてGHQ(連合国最高司令官総指令部)の指令によりおこなわれた日本農業の改革で、不在地主の全所有地と在村地主の貸付地のうち、都府県で平均1町歩、北海道で4町歩を超える部分を国が地主から強制買収し小作人に売渡した。この結果、地主階級は消滅し旧小作農の経済状態は著しく改善された。
 
 この改革で、実質的に農業を営む人々(小作人から自作農になった)が農業の推進者となり、意欲的に生産に努めたので農業生産力はおおいに発展した。
 また、国はこの時期、食料の増産と外地からの引揚者等のため、積極的に未利用の農業可能地(未墾地)を解放して集団帰農者受け入対策を採っている。当町でも、渡島支庁(国・道)の行政指導により、昭和20年(1945)字日和山(空川)70町歩・女那川17町歩・日ノ浜16町歩の開拓地を準備し入殖者の受入れをしている。なお、開拓地は条件付きで入殖者の所有となつた。この事について、昭和21年3月31日の事務引継ぎ書のなかに次のように記載されている。
 
昭和二一年三月三一日 事務引継書(抜粋)
           前任社 元尻岸内村長     井上悟
           後任者 尻岸内村長代理 助役 前田時太郎
一、未墾地解放並びに集団帰農者受入の件
 本村内には農耕地適地にして未開発の地積数百町歩余あり、且つ集団帰農者入殖予定地として支庁に於いて地方費有林空川七〇町歩、女那川一七町歩、日ノ浜一六町歩の実測地有り、氏が開拓並びに帰農者受入れに付き万全を期せられ度。
 
 この農業政策にもとづき入殖した森菊太郎氏の子息、森光広さん(字川上)は当時を思い起こし次のように語っている。
 
 『昭和20年に村岡元吉さん、22年森菊太郎(光広さんの父)、24年、佐々木さんが入殖。森は割り当てられた入殖地に家を構え、馬鈴薯、とうもろこし、豆類を主に6町5反をなんとか開墾、この入殖地を自己地とする事ができたが、土地は酸性土で作物の生育が悪く収穫はよくなかった。佐々木さんの条件も同様であったと思う。森は、この開拓地に6年間過ごした後、生活の場を女那川に移したが通いながら耕作は続けた。村岡さんも同じように入殖地に家を建て開墾に当たったが3年間ほどで開拓地を離れ、主に炭焼きをして生計を立てていた。当時、炭1俵を75円で販売していたというから、酸性の強い作物の育ちの悪い土地で農業をやるよりは、よっぽどよかったのかもしれない。とにかく、農具も肥料も乏しい時代である、ただあるのは労力だけである。入殖にあたり渡島支庁の耕作資金から金を借入れたが、これには結構高い利子がかけられていた。資金は当然、農具・リヤカー等の購入に当てられ、生活費は全く無し、秋の収穫が待ち遠しく痩せた畑で採れたひえ、あわ、いも、カボチャが主食という、今考えれば貧しい限りの生活であった。
 その他、入殖者に対する特別な援助はなく、唯1つ、ランプ用の灯油(勿論、電気はなかった)の配給券(当時、殆どの生活必需品が配給制度であった)が優先的に割当てられた事くらいである。この一升瓶1本の灯油を貰うため、日ノ浜の旧役場下の店まで引き替えにいったものだが灯油代は個人負担であった。』
 
 森さんは、この土地ではいくら頑張っても営農が成り立たないと考え、結局、離農資金を借入し離農する結果となった。
 
 戦後の農業入殖者(開拓農家)についての町有の記録はみつからない。したがって他町村の記録や聞き取り、伝聞等をもとにした推論であるが、やはり結果的には、上記、森氏と同様長続きしなかった模様である。原因としては、〈耕作地としての適性の問題〉耕地面積・地形・酸性土等。〈気候の問題〉発芽期の日照不足・海霧(ガス)等。〈営農資金の問題〉〈入殖者の経験・意識の問題〉多くは未経験者でとにかく食料を確保するため、あるいは職がないのでといった理由、などがあげられるが根本的な問題は、この計画そのものが国の農業政策の「その場凌ぎ的」、実態にそぐわないデスクプランであった、といわざるを得ない。