4、海産税について

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 明治政府・開拓使の財源の殆どは国民からの徴税により賄われる。明治2年9月、場所請負制の廃止とともに「運上金」の上納は当然取り止めとなり、以降、開拓使は漁業からの税を「海産税」と称し漁民の直納による制度とした。
 当初の「海産税」は魚種や製品により、また地方地方によって税率も納入形態も一様ではなかったが、その後、しだいに統一され明治13年頃までには「収獲の1乃至2割」を「現品」で納める形態が一般的となった。旧藩時代「金納」が支配的であったのが、この時代逆に「物納」となったのは、請負人(商人)の上納から漁民の直納になったためで、当時一般漁民は収穫物を貨幣化するのが、比較的困難な実態(仕込制度)にあった。
 以下は『開拓使事業報告(第5編)』による、明治初年以来の各種海産税の沿革から、郷土関係分(当時尻岸内村は茅部郡下であった)を抜粋した表である。
 なお、「海産税」は明治13年7月『北海道物産税』と改称する。

『明治13年現在 函館支庁管下 海産税(茅部郡抜粋)』

 この海産税表をもとにに徴収した税額と国税の総額とを比較してみる。

『国税総額と海産税額』北海道漁業史「開拓使事業報告第5編」より

この表では、明治2年から3年を除けば、国税総額のほぼ90%を海産税額が占めている。漁業が支配的な産業であった明治初・中期の北海道において、海産税が最も重要な租税であった事はいうまでもない。言い換えれば、漁業なしに北海道の行政・開発は成し得なかったわけである。したがって、海産税の網は実に細かく被せられ、しかもかなり高率で徴収されている。特に「昆布」は物納であり、安定した収獲があり、また、輸出による価格の高騰で相当の税収を上げたものと思われる。
 なお、漁業地帯としてすでに成熟していた茅部郡・亀田郡の税率はすべての種類(結束法・製品名)で一番高い率の2割が課せられていた。