昭和5年の村の文書には当時の状況を次のように記し対策に腐心していた模様である。
本年は柔魚・昆布共ニ希有ノ凶漁ナリキ、鰛豊漁ナルモ価格暴落ノ為メ収支償ハザル状況ナリ。各種ノ沿岸漁業ハ逐年不振ニ響ク状態ニアリ、漁船漁具ノ改善ヲ為シ沖合漁業ヲ奨励シ、且ツ漁獲物ノ加工方法及ビ販路ニ付キ考究スルハ刻下ノ模様デアル。
しかし、具体的な手立てがないまま、昭和6年の大凶作、同7年には水害と相次いで災害に見舞われた。殊に7年の豪雨は、昭和4年の駒ケ岳噴火昆布礁災害による復旧事業がようやく成果を表しかけた矢先だっただけに、その落胆は大きかった。諸河川の濁流は昆布礁を再び泥で覆い、翌8年昆布の生産額を著しく減産させた。ただ、この年イカ・イワシが幸運にも豊漁に恵まれ、なんとかこの年を凌ぐことができたが生活は依然苦しかった。昭和8年「尻岸内調査日誌」10月2日には次のように記されている。
往年の同地漁民、柔魚に鰛に昆布にいずれも豊富であったので、生計は誠に順調であったが、現在では沖漁が年ごとに減退し(これは組合員の増加著しきにも依る)、昆布も本年は薄漁の為め収入少なく、全く苦痛そのものである。従って近時は鰊漁の樺太方面へ出稼ぎに行く者が多くなったが、本年の如きは雇ってくれる所がなく、歩合制で行ったが順調にいかなかった為めに欠損し、先方へ仕送りしたいう悲惨事まであった。しかし、幸いこの近辺は馬鈴薯、大豆、大根、南瓜、玉蜀黍等、野菜類が採れるので米、味噌、醤油さえ購入せば食っていけるので非常に助かる。
一戸当たりの本年の収入は二百円乃至二百五十円位(元揃昆布十把四十五円・塩干昆布大束十円・柔魚三十把十円・銀杏草及び海羅二〆二十円・鰛八玉三十五円である。
ここにも記されているように、漁家1戸当りの収入は、出稼収入を加えても、200乃至250円と極めて低く、昭和10年の漁家1戸当りの負債は650円の3割以下にしか過ぎなかった。
昭和8年7月の水産関係団体長会議では次のように述べられている。
渡島地方の鰛漁は近年希有なる豊漁ならしも、その価格低廉のみならず、従来の因習に基づく仕込関係(仕込融通)のため、全く収支償はざる状況にして、債務は益々増加しつつあり、又、当地方の重要産物たる柔魚は最近三、四年薄漁なりし為、その窮状は極度に達し、彼の凶作地方以上の惨状なるを以て、農村救済と同等適当なる救済策を講ぜられんことをその筋へ望む。(提出議案第3号)
このように、豊凶にかかわらず経済恐慌による漁村の窮乏は深刻であった。勿論、凶漁の年は極限に達していた。
この年10月3日、道庁長官はとりあえず漁村での失業者を救済するため「臨時漁村振興土木事業補助規程」(庁令第47号)を設け、漁業者団体・市町村を通じて実施する事とした。さらに、北海道水産会第10回総会は、道庁長官の諮問する「漁村国救対策」を審議して、〈漁業制度の改革・漁業組合事業の助成・漁場の保護改善・機船底曳網漁業の禁止・鉄道運賃の低減・公課の軽減・漁船保険制度の確立〉などを建議したのであった。