昭和24年11月、鉱業権者押野貞次郎より借区し操業に着手した石井竹次郎も、もともとは三重県箕島(現有田市)の水田と蜜柑農園を経営する豪農の出であり、その父は初代箕島町長に推されたほどのこの地方きっての名士であった。石井農園の蜜柑と言えば、全国的な銘柄の有田蜜柑の中でも、際立った品質で群を抜いていたと言われている。石井は跡を継ぎ農園経営の充実を図るとともに、地元はもとより関西でも知名度の高い父の名、竹次郎を襲名して、果樹用農薬、石灰硫黄合剤の製造という事業を起こし、原料の硫黄鉱山の開発に乗り出していくのである。
石井の北海道での硫黄鉱山経営は、昭和6年奥尻硫黄鉱山に始まる。奥尻の硫黄鉱は古武井硫黄鉱山と同じく、いわゆる沈殿鉱(ちんでんこう)で埋蔵量も多く70%の含有率という高品質のものであった。石井は事業を軌道に乗せると、函館中学を出た長男・次男も経営に加え、椴法華の褐鉄鉱(かってっこう)鉱山、瀬棚の太櫓(ふとろ)マンガン鉱山と事業を拡張、昭和18年には興国人絹の千才登(チトセノボリ)硫黄鉱山の経営も引き受ける。
石井が経営してきた鉱山も、昭和19年の夏太平洋戦争真っ直中『戦時企業整備令』により閉山の憂き目に遭う。すなわち全国の平和産業に属する鉱山の鉱業権・設備・資材等は国家に徴用され、その従業員は戦争に直接関連のある鉄・胴などの鉱山に配置転換されたのである。石井の鉱山(ヤマ)も勿論その例に漏れなかった。
戦後の混乱期、石井は農業の復興を読み取っていたのであろう、そして、それに伴う硫黄の需要も。いち早く硫黄鉱山の再開に乗り出す。昭和22年古部硫黄鉱山を皮切りに、同24年恵山硫黄鉱山の採掘権を入手し操業に入ったのである。
戦後の恵山硫黄鉱山は、石井の個人経営から有限会社での経営、そして、野村鉱業との合弁会社に引き継がれて操業を続けてきたが、昭和42年(1967)、明和元年頃(1764)採掘以来200年余りの長きに亘り掘り続けられてきた鉱山(ヤマ)も、鉱業・鉱山をとりまく国内外の情勢の中で終焉(しゅうえん)を告げる。
石井の次男、石井眞一氏は昭和45年(昭和59年改版)『我が鉱山懐古』と題して、石井家の鉱山事業の回顧録を出版している。この中で氏自身が直接関わった戦後の恵山硫黄鉱山についても詳しく記述している。氏の経営者としての見識、技術的な面からの専門的な解説、付記している豊富な資料、そして、鉱山(ヤマ)で働く人々の喜怒哀楽(きどあいらく)……。恵山町には、こういった記録が残されていないのは勿論、鉱山跡には遺構すら見られないのが現状である。閉山して既に30年、活火山恵山に鉱山があったことさえ忘れ去られようとしている中で、これは、恵山硫黄鉱山の当時を知る上で貴重な記録と考え、石井眞一氏の回顧録『我が鉱山懐古』から内容の一部を掲載させて頂くこととする。
石井眞一氏 『我が鉱山懐古』より
恵山硫黄鉱山
昭和二十四年十一月、私は(父は)鉱区権者押野氏と租鉱権契約を結んで、恵山の開発に立ち向かったのである。生産した硫黄製品一トンについて売値の二%を支払う事で押野氏から借権して石井が採掘権を行使すると云うのが租鉱権契約のあらましである。勿論その際契約金とか云って契約時、二〇万円位を支払わなければならなかった。
さて、恵山開発に当たって、前採掘者が建て残してあった一五坪余りの飯場が、恵山の火口原の一角にあった。その屋根は半ば破れて中から月が見えるほどのアバラ屋であったが、これを手直しして一〇人余りの人を集めて建設に乗り出した訳である。当時恵山に登る道はと言っても、僅かに人が登れる位のものでしかなかった。先ずもって道作りから始めねばならなかった。十一月と言うのに何十年来の寒波の年で、凍りついた土石はカーンとはね返って鶴嘴(つるはし)の先も受け付けなかった。
私は人夫兼作業監督兼帳面整理兼小使と云ったところで、明け方から作業にかかり、夕食後の夜にはカーバイトランプの火の光で書類整理や、菊池、笠原君等と明日の作業割りなどをする事で暇がなかった。食糧難の時代である。一週間に二、三度は恵山から皆の食糧の闇米(やみごめ)やらを買っては、自ら登山道を背負い続けた。物資難の時代である。作業員の衣服は函館の古着屋商で仕入れた。冬になっても履く長靴も無く、函館中学同期の盛島君なども藁靴(わらぐつ)にボロウエスを巻きつけて働いた。戦後間もない頃である。人夫も様々なものがいた。賃金をフトコロにすると函館に遊びに行って、四、五日も帰らず、懐の底がついて帰って暫くする内、夜の女からの勲章が出てくる色男もいた。監獄から出たてのホヤホヤのもいた。野戦帰りで飢餓感のせいなのだろう、こちらの苦労もなんのそので、食事毎に食べても食べても足らず皆な食べ終わった後にも一人で鍋釜の底をはたかない内食膳を離れないと云う者もいた。
そして、硫黄粉末と交換して漸く手にいれた、鉱員へ支給のつもりのヤミ品の長靴数足と、月末支払いの賃金や店払金を、山に持参すべく父から預かって、バスの中で盗まれたと云う話なので調べたが、皆目分からずじ舞いのウヤムヤにした係員も出たりした。人任せなど出来るものではなかった。色気も楽しみもない云ってみれば異状境で家族と離れ、山中での無味乾燥な環境で、人の心も何か変テコになって、不安感と言うか焦燥感の里(さと)恋しさに駆られて、意志の弱さが露呈されて行くのであろうか。いろんなそんな事に会いながら、ともかく翌昭和二五年春に焼取釜二基を完成した。
少し恵山の事を話そう。恵山は標高六一九(ママ)米、渡島国亀田半島の再南端にあって、太平洋に接する明媚な休(ママ)火山である。その爆発の記録は一八四六年となっている。硫黄採取の発足は明治以前からとされ、幾たりかの人々によって二、三年採掘精煉操業されては暫く放置され亦始めると云うことが繰り返されていた。
その精煉方法としては、煙道式と言って火口深部から噴出する気化硫黄を噴気口から外気に接しない様に、長さ五米位の煙道を通過さす内に噴気温度の五〇〇度位から、溶液となる一二〇度位と下って、煙の道の終りの溜口に溜めては、それを一日に一、二回型缶に汲み取って冷やし、黄色の固体の硫黄製品とする方法である。山下新之助氏はこの方法で、三~五年がかりで百トン余りの硫黄製品を作っていた訳である。
亦一つには、地表噴気口付近についた高品位の昇華硫黄鉱をダラニ法や塩化溶剤方法によった。近年になって、普通一般の硫黄精煉の主流である焼取精煉方法によった訳である。硫黄ガスが地表面の土石に付着して出来る昇華鉱や溶硫鉱など品位の六〇%以上もの高品位鉱はほんの地表面の部分に限られたので、精々採掘全区域で何千トンという位の鉱量で、少し地中に掘り進むと品位は三〇%~一〇%と急に低下して行く性格のものある。そんな訳で当山も開発当初の一、二年は高品位鉱が幸いして、生産もすぐ軌道に乗って、古部鉱山と両鉱で月産一五〇トン位生産するようになり、ともかく全国の硫黄山に先駆けての一歩を成すに及んでいた。当時の硫黄価格は一トン当たり六~八千円であった。
しかし、そうこうする内、硫黄市況もかなり上向いていた様であった。そして、製紙、人絹、農薬会社等の需要家には、簡単に易く手に入らない硫黄になりつつあったのである。手っとり早い大阪合同、キングや伴野等から、亦、前売り金の名目での手形借入、銀行からの融資を受けて、昭和二十六年秋頃迄に、古部も恵山も三基(焼取釜)に増設して、月産三〇〇トン位生産する様になっていた。
そして、暫くの内に硫黄は大変な人気で高騰して、一トン四万円の現金商いもされる始末で、十条製紙や東洋紡績の重役等が訪れて、幾らでも金を出資するから売買契約なり、共同事業化なりしてほしいと云って来た。中には、百万円の現金を机の上にポンと置いて頼みに来る者もいた。しかし、こんなにうまい話の最中でも、父は信義の重要性を主張して、大阪合同、千才商会、キング、伴野等前契約分については、トン一万二千円位の当時の半値以下で契約どおりの納入量を必死に守っていた。従って、設備投資のあおりの資金繰りは仲々追い付かず何時もやり繰りに忙しく、よく人から随分と儲けているだろうと云われたが、そんな第三者が見る程利益を得てなくて、設備償却も思いの外進んでいなかった。
さて、終戦のどさくさまぎれの事もあって、着業手続きなどの面倒な鉱山局への届出、認可申請など後回しにして、まずがむしゃらに開発に立ち向かうやり方で、資金繰りに追われ寸刻のゆとりのない生き死の企業化を成すに及んで届け出をする様な事になり、政府監督機関である鉱山局等から何時も小言を云われ叱られていた。
矢次早に計画し建設し拡大して、もう八〇人からの大勢の人を扱う様になり、労働基準局職業安定所、社会保険局、通商産業局、鉱山部、鉱山保安部とか、いろいろ官庁手続きやら会計事務のことなどについて私は寸暇もなく、回りきれなくなった事もあって、和歌山から徳宝君の弟の正三君、それに台湾から引揚の親戚筋に当たる福元氏や函館中学校同期の松井君の来援を得て指揮陣容を建てる事が出来た。福元氏は、函館の本部事務所にあって、父のもとで総合会計事務に当たり、徳宝、松井君は古部に、正三、笠原君は恵山と云う配置で頑張ってくれた訳である。古部は部落と採掘場が歩いて五分位のところにあり、併も事務所兼鉱員宿舎は部落の中にあったせいもあって、比較的人心は何時も和んでいたが、一方明媚な恵山であったのに、多少人里離れて宿舎や現場があったせいであろうか、何時も私が不在になっている間、鉱夫は作業後に飲んでは騒いだりして、少しごたごたする事があった様である。中村温泉と言って、採掘場と鉱員宿舎との間の火口原に硫黄泉の風呂のある小さな温泉宿があって、そこが焼酎のやり場となっていた。酔っては宿舎に帰り、月末になってあの日は三杯しか飲(や)っていないのに五杯もの勘定書をよこした、と云ってぶつぶつこぼしながらも亦飲(や)っていた。どちらが本当なのか分かったものではなかった。
さて、それでも事業は何時の間にやら硫黄ブームの軌道に乗って、函館での父は、ちょっとした有名事業家の内にランクされたか、煽られて時にはNHKのラジオに引き出されて、 得意満面に我が経営の理念とやらをブッていたことがあった。そして、その頃には取引きの函館第一銀行支店長などからもてもてに愛想されて、手形割引きや信用手形短期融資も、幾らでも応援するなどと言われて持ち上げられていた。
しかし、その父の自信満々とは裏腹のように、私は相変わらずそんな余裕もなく、みすぼらしく双方の山や亀田工場の事などと突き合っていた。
古部の鉱量も残すところ二万トン余りであることが分かった。焼取釜三基での鉱石使用量は年間一万トン近い、稼行寿命が精々後二年余り位のものであった。
亦、恵山は昇華鉱特有である表面の品位の高い層を一皮二皮採掘して行く内、三基(焼取釜)にまかなう採掘量で、目に見えて高品位のものは少なくなって行き焼取精煉の採算を割る四〇%以下になる事が目に見えてきて気にせざるを得なかったのである。つまり設備金の返済もままならぬ内に、古部や恵山の鉱量欠乏や品位低下による採算ペースを割る恐れがあることを気遣わざるを得なかったのである。何か対策はないものかと模索していた。
その頃古部の採掘方法として、従来の鉱夫のハンマーやタガネによる人力採掘では、三基処理の鉱量を賄い切れないのでコンプレッサーを設置し、人力の一〇~二〇倍の能力の機械採掘方法への切り替えをすることになり、私はその段取りのため函館に近い銭亀沢硫化鉄鉱山への見学に行ったのである。ところが調査見学をしての帰途に、計らずも該鉱山のトラックの都合でその浮遊選鉱場(ふゆうせんこうじょう)に立ち寄る事になったので、序での事と思って、初めて浮遊選鉱(ふゆうせんこう)と云う作業を見学した訳である。
浮遊選鉱(ふゆうせんこう)とは、簡単に云うと鉱石を五〇メッシュ位に細かく水式ボールミルで砕いて、それを浮遊選鉱機(ふゆうせんこうき)によって言葉の意味するように純粋な鉱物分を不純物と分離して浮かして採収する作業工程である。従って、浮選(ふせん)されたその精鉱(せいこう)は元鉱より三倍もの高品位のものに仕上がる訳である。私はその様子を見てハッと思い当たり、これを恵山の昇華鉱に利用すれば最も適合出来ると考え、早速その場でお願いしたところ、当時の選鉱場長の土谷悦郎氏は、快く了解下さって、恵山の硫黄鉱石の浮選を試験運転する事になった訳である。
日を改めて恵山から5トンばかりの鉱石を運んで、私の目の前で操作したところ、硫化鉱と同じ浮遊剤(ふゆうざい)を使ったが見事図に当たって、三〇%ほどの品位の原鉱が八〇%を上回る精鉱になる、予想以上の成績が出たのである。
そこで、これは恵山の再開発の画期的一案であると確信するに至った。
その試験結果の間もない頃、北海道地下資源調査所主催の、硫黄研究会なる催しがあったのである。道南地区では実働中の日本硫鉄と言って、大沼公園の近くの精進川鉱山と我が恵山鉱山がモデル鉱山として、両山見学がてらの研究会を持った。その席上高品位の昇華鉱ならば、その儘(まま)、オートクレープによる蒸気精煉方法で低コストで生産出来ると云うデーターが示されたのである。オートクレープとは、堅形の円筒の圧力釜の事である。その蒸気精煉方法と云うのは、その釜に鉱石と水を入れ密閉し、それにパイプを通してボイラーから過熱蒸気を送り込んで四キロ圧力とすると、釜内温度は一二〇度程となり、鉱石に含有する固体結晶の硫黄分は液化抽出され、熱水の媒介によっての硫黄液が凝集され、ズリと水の三様に釜内で分離されるので、硫黄液とズリ滓(さい)を仕分けて釜から取りだし硫黄製品化する方法である。父にはかつて和歌山で硫黄剤製造の苦闘の歴史があった。だから、オートクレープの話には躊躇(ちゅうちょ)なく理解することが出来たのである。ここにプランは決したのである。つまり、浮選により、恵山の低品位鉱を高品位の精鉱とし、それをオートクレープによる蒸気精煉をするベルトコンベアシステム生産工程とする事であった。この方法によって低品位鉱なら相当量の恵山の全鉱量を生かす事が出来るようになる。と云うのは精煉費のコストを左右する燃費に於いては、焼取精煉では気化温度の五〇〇度以上にせねばならないのに対して、蒸気精煉では液化温度の一二〇度の温度処理である事から、燃料エネルギーの石炭の消費量は三分の一位に出来る事から大幅なコストダウンが可能である事が見通せるからである。腹が決まったらその日が設計突入の日であった。細かい損益計算も学術的調査もなく、息のつく間もあらばこそで計画に取り組んだのである。
恵山浮選蒸気工場
恵山浮選蒸気工場は、昭和二十七年十月に着工し、同二十八年二月には生産を開始した。
それで、恵山山元での焼取釜は廃止した。設備資金は当時の金で四、五千万は下らなかったであろう。
『金の事や大局の事は、お前等がとやく心配せんでもよい。俺がやる。お前らは安心して山の事だけに専念すればよい。借金はあっても山の設備や資産らそれに倍するものがあり、なんにも心配ない。』と、まあ、暢気と云うか楽観的と言うか、どこまで怪物男に出来ているのかと、今更のように内心舌を巻いていた。
しかし、鉱山やそしてその施設ほど資産価値のあってないものはないようだ。と云うのは、若し償却前に経営不能になった場合、施設はスクラップ価格であり、ましてや恵山の様な借り山では、山の資産価値は何も無いに等しい訳であった。然るに現実には鉱量の見通しの問題、需給のアンバランスから来る価格の問題等、問題は山積されている。強気一点張りの父チヨット厳しい現実論をやると、悲観論として『お前らは度胸がない』と一蹴されるだけだった。拡張経営をしないと、資金操作の辻褄(つじつま)が合わなくなると云う訳である。且って日本の大東亜戦争を常日頃語っていた父であったが、自己の事業方針はとなると似た様なものであったかもしれない。
度胸がよいと言うべきか蛮勇であったか知る由もなかった。あに計らんや、建設後も未だ生々しい昭和二十八年夏頃になって恐れを成すものが遂に来たのである。硫黄ブームに刺激されて、至るところの硫黄山が開発増産されたため、硫黄製品が需要に上回る過剰を来すと見るや、各需要側は一斉に買い控えに走り、ここに第一回目の硫黄の大暴落が始まったのである。三万円前後であったものが、一挙に半値以下の一万五千円以下前後でも売れないダンピングに追い込まれ、需要家強気の買い手市場と化した訳である。製品当たり一~二万円も安くなると月間六~七百円の収入減となる訳であり、拡張に次ぐ拡張で設備費借入金の元金や金利の返済に見る見る追い込まれてきた。こうなると一八〇人もの従業員を抱えて、損金をするのに一層拍車(はくしゃ)をかけた。
その皺寄せは、途端に店払いや労賃の遅配になっていったのである。そんな事になって来ると、今まで全く協調的で行き届いた作業振りであったのに、従業員から苦情や組合結成の運動も始まり、その内に札幌から全鉱連(組合)の幹部が乗り込んで来て、結成ほやほやの組合に入りびたりで闘争教育を授け、組合から何かと条件が多くなり、将に内憂外患の四苦八苦に追いつめられて行った。
更に春頃に大雨にあい、沈澱池の一部決壊から精煉滓(せいれんかす)が海に流れ漁業組合から大変な損害賠償を迫られてもいた。沈澱池とは鉱滓(こうさい)を溜めて置く滞積場のことである。製品二百トン生産するのに対してその鉱滓は、十倍の二千トンも出る訳であるから大変なことである。それの一部が海に流れ汚した訳である。函館水産試験場が調査に入り結果報告としてその地帯の海草類は、今後五年間位は育たないと云う事であったので、莫大な損害賠償要求となった訳である。
併し当方はそれ程の損害とも考えられない事から、夏の昆布採取時期に秘かに調査したところ、実際にはむしろ前年より豊作年であった様だが、漁組の方では決して要求の矛(ほこ)を納め様とはしなかった。そんな事でこの尨大(ぼうだい)に処理せねばならない鉱滓(こうさい)の沈澱池対策も、心痛の種でもあった訳でもある。こんな事があったりもして八方から追い詰められていた。
そんな時、父は東京に販売にいっていたが売れず送金もないので、私は困って換金の手段(てだて)として製品を函館の倉庫にいれて、倉荷証券(くらにしょうけん)を担保に第一銀行から金を借りたことがあったが、それを出荷して金利や倉敷料やらを差し引くと、結局正味の手取金は一トン当たり、一万二千円にも満たないものであった。
こんな風になってくると、あれ程愛想のよかった第一銀行の支店長も見る見る急変してアサッテの方を向く様になって、短期の信用手形融資の分や何やらを、あの分この分と云って次々に回収して見る見る三、四千万円もの借入金を引き上げて行ったのである。売上金は半減するわ借入金の引き上げやらではたまったものではなかった。秋も深いその頃には山にばかりもおれず、私も函館に駆り出されて毎月末の支払い金の言い訳や、手形の切替え依頼に走り回り、第一銀行は殆ど綺麗に見事に借金なしに締め出されていったので、いつの間にか替わった取引きの勧業銀行の窓口に立って、手形決済等に来た方々に書き替えや買い戻しの言い訳をしていた。そして、年の瀬も迫る頃千才商会に絡む不渡り手形第一号を出した。
翌二十九年九月の洞爺丸台風で古部からの硫黄積みの船は沈没し、その上に掘り過ぎから坑内落盤を起こし古部は休止した。苦しい借入や無理な融資手形などに私も上京したりもした。
そして、亦幾度となく不渡りを出しながらやり繰りしていたが、つもり積もって逃れる手段(すべ)も尽き果てて、連続不渡りで昭和二十九年秋、銀行取引停止処分の倒産第二号をやってしまったのである。父、六一歳、私、三〇歳の事である。
父は借金の実態を初めはなかなか私に言わなかったが、いずれ分かることだからと根掘り葉掘り問いつめて、吐き出させてみた内訳はかれこれ七千万円余りのものであった。因みにこれは現在の貨幣価値で一〇億円を上回ると思われる。
この頃の私は心痛困憊(しんつうこんぱい)で体重も四七~八キロにまで痩せ、足の裏には魚の目を二つも蓄えて、その上潰瘍で時折差し込む腹痛に苦しめられていた。余所見(よそみ)する寸暇もない努力に報われたものは、債権者から寄せられる白い目にあっただけであった。勝てば官軍負ければ賊軍とはよく云ったものである。初めから騙そうと始めた筈もなくやったことでも、結果的には騙されたと云われねばならなかった。幾ら誠心誠意でやった、或いはもう一年暴落が遅かったらなと云ってみたところで通る話しでもなかった。鉱山のほうは、恵山の浮選蒸気工場のみ労務者管理経営のような状態で、二~三か月は操業していたが、こんな労務経営などでは間もなく販売やら何やらに行き詰まって、これも冬の到来とともにすべて休山となった。
初めての債権者会議では親子諸共に泣いて詫びねばならなかった。日通だけがそれに先駆けて、トラック三台を家の前に横付けにしておいて『家財を没収する』と執達吏(しったつり)をよこした。そして曰くに『調停金一〇万円即金出すなら強制執行せず一度引き上げて返済方法を決め調停してもよい』と云う訳である。「一銭の金もない」私は気が立っていたので破れかぶれであったから、「何んでも持って行け!」とつい怒鳴っていた。しかし父は冷静に「工面するから」と云って一応引き上げさした。ここでごたごたすると全債権者への収拾が付かなくなると見た。流石に経験の本領が出ていた。二、三日の内にやっと苦面(くめん)してその金を作り日通と調停した。債権額は二百万位であったろう。しかし、家財の殆どに赤紙を貼り、然も庭木庭石に至るまで公正証書に書き連ねて行った。日本通運と言えば昭和一〇年頃から、亦戦後にかけて今まで、製品の貨車輸送による大変なお得意先であった訳であるが、その日通が一番厳しい取り立てにきたのには驚かされた。
その他の大口の三菱商事、大阪合同、キング、伴野、大成機械をはじめ、一般の債権者は全く穏便に耐えて協力して下さった。
再建工作耐乏の一年
その冬には暖房に燃やす石炭も買えず、洞爺丸台風で倒れた庭の三本余りの松の木を切り割りして暖を取った。二人の従兄弟も何んの得るところもなく空しく和歌山に引揚げざるを得なかった。親子二人で松の木を燃やすストーブを囲んで侘しく再建の事を語り合った。人間失敗し落ち込んで、初めて人情を知り世間の端に触れ、反省の出来ることを思い知らされた。特別に一銭の隠金も無いのである。私は日通の目コボシの骨董品・家財・本等を質店に持ち出しては換金し、各山のスクラップ、不要機械等を整理したり糊口(ここう)に当てていた。
その内に父は、林勉と言う人が持っていた硫黄製品の売買の取り次ぎをして、鞘金(さやがね)を得たりして運動資金にしていた。家内連中も鉱山など幾らやったとて苦労するだけで駄目だから、他の事とか月給取りにでもなったほうがいいなどと手厳しい批判を受けた。
しかし、山の外に何ができると云うのか、人間はそう簡単に一度歩み慣れた道を替えられないと見える。大体外の事と云ったところが、まるで陸(おか)に上がったカッパ同然で、全く見通す目がない訳である。暫くは何からどうすればいいやらも判らず、只ぼやっともしていた事もあった。
併し、結局やり直す事より外にない事となり、こうなると借金も財産の内、などと云う意味もある事に思い当たった。倒産と言う看板を掲げて落ちるところまで落ちて仕舞うと、却って倒産前のあのモガキ苦しみより、開き直りのせいか落ち着きと解放感さえ取り戻すことが出来た。後になって気付いた事であったが、一年後再開されるまでに、何時の間にやら魚の目も消えてなくなり胃潰瘍もなくなって、体重は一〇キロも増えていたものである。それでも七千万円の負債の重圧は忘れられるものではなく、我が人生もこりゃ一体全体どうなる事かと沈滞の日々でもあった。
そんなある日、処世家の老人が偶々(たまたま)訪れて来た事があって、私に『これだけの借金にぶつかるなんて君、何千人に一人もない、若い日の亦とない経験だよ、有難いと思いたまえ』と慰めてくれたが、そんな立派な経験より、尻の毛まで抜かれることのない一介のサラリーマンであったらどれ程楽だったろうかなと、人事(ひとごと)だと思って勝手な事を吹いてくれる。としながらも大いに勇気付けられたものである。
幾回かの再建会議もあって、その内に債権者による再建会社設立の案も立てられた。しかし、だれもが一旦事業主権を持ったからには、一切の責任を持たねばならないことをしるところまで来ると、二の足を踏んで尻込みして決しかね右往左往となった。痩せても鉱山経営となるとそう甘いものでなかった。素人の集まりで出来るものではない。債権者がよってたかってその借金を背負ってくれるなら有り難いものであったが、寄り合いの、ある意味で責任のなすり合いに成り兼ねない再建会社に、金融筋からも再建資金は出そうになかった。
後に父と二人で再建融資依頼で道庁に行った折りに桶谷商工部長は『そんな君、知らぬ者の集まりで物にならんよ、君ら親子で命懸けにやるからこそできるんや』と。その通りかも知れなかった。父は当時の、田中敏文知事、勧業銀行頭取、掘芳夫氏、道信用保証協会会長、田中時次郎氏の三者に渡りをつけて、再建融資への大筋の道を取り付けた。つまり、債権者との間に、石井側が計画提案する債務返済方法に、債権者全員の同意書を取り込む事ができるなら道庁が立前融資者となり、それを保証協会が保証して一千万円の再建資金を勧銀が窓口になって融資する。と云うものであった。
これに従って二人で、一般債権者で市内関係の方々を一軒一軒回り歩いて説明し同意を取り付けた。その勢いに乗って私は、三菱商事、大阪合同等、東京方面の承諾書も取り付け完了したのである。同意承諾書の内訳は、一〇年間均等割りに毎月末払いによる責務完済と言うものである。
それから直ちに道庁へ再建具体計画案を提示して融資依頼に行った訳だが、大筋では大正らの合意は得てあっても下部諸々の事務的審査が大変なものであった。道庁の方では通産局の意向を伺う事になり、鉱量の見通しその他のコスト等で、経営が果たして石井の立案通り可能かどうかの認承を取り付けなければならないと云うので、今度は通産局にも一から説明に走ったのである。
この様なことで、道庁、保証協会、通産局、勧銀と、各関係担当課長係長等の認可印を受け付けるのに、各所の指摘を受ける都度書類の作成替えをしては、函館と札幌を何度往復した事であったことか。いくら書類的に書き直してみたところで所詮は魔術師の数字合わせ位いの事、実際に事業計画の可か不可かは本当の所、誰にも見通せるものではなかった。
併し役所も銀行筋でも、担当者としては軽々と認可して、どこからか責任的挙足を取られぬとも限らぬと、スタモンダする訳であった。商工部長の桶谷氏が一応の調査名目で恵山に来た折りに『君、変な書類やオンボロ工場など見たら却って貸す矛先が鈍るよ。それより恵山の景観でも眺めて元気出すよ』と結局そんなものかも知れない。政治的大局的判断の上に立って腹を決めるよりないと云うことであろう。
道庁では、高々一千万円の保証融資で、年間五千万円からの金を本州から引き寄せる地場産業を復活させる事ができるのなら安いものと言う判断であったろう。併も経営する者はこの道のベテランで、唯硫黄一筋に猪武者に立ち向かう事より知らないクソ真面目な親子がやることという、チャンと見通しをつけてあったようである。従って下部からの書類が出来るのがもどかしいばかりに、書類が事務局を離れるや、その翌日には知事の認可決済になったのである。そして、桶谷氏の見込みは間違いなかった。
硫黄が石油精製工場から副産物化されて、全国硫黄山の廃山になる暫く前頃の、昭和四十二年まで、再建後、約一〇年余りの生産事業を成した訳である。
有限会社石井鉱業 恵山工場再建
さて再建後は、石井竹次郎個人負債と切り離す意味もあって、有限会社石井鉱業の会社組織にした。まあ債務返済会社の風格であった。大口債権者の代表の意味で、和歌山からキングを退社して江川氏が経営に参加し監査役の意味で専務取締役になった。親類筋にも当たっていた事もあり、債権者側と石井側との取り持ちよろしく、亦再開後は二か月に一度の割りで来函し経理事務処理指導の世話になった訳である。函館事務所には、徳宝君が再三来道し経理を担当し、私は山の専務担当と言う陣容のもとに、三十年十一月漸く一年越しに再建発足したのである。函中同期で秋田大学鉱山学部卒業の三池君も一年位手伝ってもらった。その内に身内の横田君には山元の事務担当をしてもらった。会社組織となったので、この時から私らも初めて月給をもらう身分になった。再建融資の一千万円の使途の内訳は、四、五百万円は工場への配電設備に、一〇〇万円位は部分改良機器費に、一二〇万円位は賃金未払い分充当に、亦80万円位は公課の支払いに、残額二五〇万円は運転資金と云う位であったと思う。市況も漸く上向いてオン・レール二万三千円位となって来た矢先もあって、昭和三一、三二、三三年と三年余りは順調で、殆ど私の立てた再建プラン通りの利益をあげ、計画の承諾書通り毎月六〇~七〇万円づつ債務を返済して、既に二千万余りなしくづしていた。
鉱床も深部採掘に伴って、この頃では進歩的で三五〇万円もするショベルカーや、削岩機もいれて機械化し、軌道トロッコ運搬もトラックに切り替え合理化に対応し、工場の方も実収率の向上よろしきを得て、処理鉱品位は平均一五%位であったが、月産二〇〇トンでうまい操業を続けていた。恐らくコスト的には全国のどの硫黄山にも匹敵して劣らぬものであった。そんな状態で安定し十分見通しを得たかに見えていたのであるが、昭和三十四年春頃アメリカよりフラッシュ工法生産による輸入硫黄が入るようになってきた。
フラッシュ工法とは、アメリカの原野の地中に横たわる大規模な硫黄鉱床に、地表からパイプを通して蒸気を送り、液化した硫黄を汲み上げると云う、いとも簡単にした低廉工法で、従って価格もはるばる太平洋を渡って船輸送しても、日本着一万六千円位で十分採算するものであったから、これに揺さぶられて第二回目暴落で、亦も一万八千円位に沈みはじめたのである。従って製品は亦ダブツキ気味となってきた。再建後の販売は三菱商事を特約店に一手販売していたが、不況になるや大会社も当てにならずいい加減なものであった。結局私が自ら上京しては売先を決め、三菱に渡してくると云う始末である。
この頃から竹次郎は健康の勝れぬ事もあって、私は毎月のように上京せねばならなかった。中越パルプ、日東紡績、北越製紙、東北パルプ等に足を運んだ。倒産前、東京神田に東京事務所を設けた事があって、その時所長をした大熊君は、その頃磯部産業に転職していたが販売についてはよく道案内をしたり、繋がりや連絡をしてくれた。それで販売してきては山に引き返し、生産指導・監督に当たらねばならなかった。亦内外に忙しい事になりかけて来た。一トン当たり四千円安いと月産二〇〇トンでは七~八〇万円の収入減となる。
恵山の生産原価は大体一万七~八千円であったから毎月の債務返済金に当てていた分が出なくなる訳で、そこで各債務者にお願いして、市況回復までと云うことで返済分は後回しにせざるを得なくなってきたのである。
周章(あわて)た硫黄業界では生産組合などを結成し、生産調整やら申し合わせなどしたが、悲しいかな何処の硫黄山も弱小企業で、資金不足のためキュウキュウしている位であったから、足並みは乱れて意味のないものであった。鉱量と云うものは有限で減っても増える事はないばかりか、品位は逐次低下に向かうので、値崩しに輸入されたアメリカ硫黄のお陰で、亦立ち所に先行の不安が走って行った。倒産三号でも出す事になると、もう流石に根も葉もなくお終いである。なんとか手段(てだて)の無いものかと亦私は密かに考え始めざるを得なかった。
そこで函館に出た折りに、父や徳宝君に、何処か大きい会社と合併するか何か方法せねばと談じ合ったものである。併しこんな弱気論をしてもこの頃の父は健康に弱みもあってか、流石に特別の反発もなく素直に聞いていた。そんな折り、偶々(たまたま)、北海道地下資源調査所所長の斉藤仁先生がひょっこり恵山見学に来られたのである。私は山を案内し終わって退山する際に、『竹次郎が函館宅で所長にお会いしたく待っておりますので、寄って下さいませんか』と持ち掛け、函館宅に向かう自家トラックに先生をお乗せして、その足で私は恵山部落に行き、何時も借りている中野さん宅から電話して『所長を向かわしたから、例の野村鉱業とのタイアップの件、相談して見てくれ』と父と打ち合わせしたのである。斉藤先生は野村鉱業ともよく知り合いであるからと云って、仲立ちを快諾され話を持ち掛けて下さって、これを機縁に話が進み、昭和三十五年八月に合併会社設立に及んだものである。併し交渉に入ったのは三十四年十一月頃であろうか、合併のその日まで売り込みは大変で、相変わらず上京していたが上京毎に何がしかの条件の悪いものになっていた。興人パルプなど九州八千代工場着で一万六千円(トン当たり)でどうかなどと云われ、腹が煮えくり返る思いがした。そんな事であったから、資金繰も亦、日に日に追いつめられていた。
しかし、父はこの合併交渉に根気よく最後の努力をした。そんな交渉にかけては流石過去幾多の経歴の貫禄で進めていた。
野村鉱業と云うのは、北海道イトムカに日本で唯一の水銀鉱山を本社とした会社だが、傍系会社に跡佐登(アトサノボリ)山硫黄鉱山を経営していたのである。
ところがその跡佐登(アトサノボリ)の方は、恵山と全く同じ方式の昇華硫黄鉱山であった。処理量は恵山の三倍位であったが最早鉱量は底をついていたのである。従って折角の、持つ販路、人材、技術、資材の転向場所を物色の傾向にあった訳で、恵山は鉱量があるから資本も技術も上位である跡佐登(アトサノボリ)の力を持ってすれば十分採算ペースするとしていたので。此処(ここ)に両々、思惑が相まって決着を促す事になった。
もうかなり話も煮詰まった頃、父は私に同行し話の席に望む様と云ったが『親子二人で雁首(がんくび)をたれて行ったのでは、いかにも降参しに来た様で足下を見られるから、息子は尚一人でも頑張ると言っとる』位の強気なことにして置いてくれと云った事がある。
或いは、この劇一番の仕掛けの張本人であったればこそである。
野村との話合いの概略は、旧竹次郎個人負債残額の約五千万円の二割に該当する一千万円を野村が石井に支払う条件で、恵山を母体とする(有)石井鉱業の権利義務の一切を、新たに設立する合併会社がその儘引継ぎ操業すると云う事である。そして、新会社の資本金を、三〇〇万円とし持ち株の比率を、野村二、石井一とし、社名を恵山硫黄株式会社とする、と云う事である。それで、旧債権者には、残額五千万円の二割りに当たる一千万円を支払って、残額は棒引きに願うと言う承諾を取らねばならなかった。それで、全債権者にお願いに上がった訳だが、(有)石井鉱業再建以来三年余りに亘って、再建当時の約束通り毎月末、キチンキチンと二千万円余りを返済して運営してきたことによる信用や納得を戴いたものか、業界の今後の時局柄も考えて下さって、一人の反対もなく『石井さんがそれで良いなら承諾します』と言って捺印下さって、ここに合併契約成立の運びを得たのである。
昭和三十五年一一月、(有)石井鉱業・野村鉱業(株)合併、恵山硫黄株式会社発足、操業を開始する。
昭和四十二年秋、鉱床限界・市況軟化により閉山、最終決算報告書では一億円余赤字損失、しかし、赤字損失は野村鉱業が補填し一銭の不払いも残さずに閉山する。
昭和四十五年頃には、全国の石油精製工場から公害防止上、精製過程に産出される副産物の回収硫黄が、全国硫黄鉱山で生産される以上の量を産出するようになる。
昭和四十七年頃には、全国の硫黄鉱山は、莫大な負債を残し支離滅裂のまま解散壊滅した。
昭和12年(1937)7月「恵山山開き」後方に硫黄精煉場の3本の煙突が見える
石井鉱山恵山焼取釜(精煉場)3本の煙突は昭和12当時のもの
型缶からはずした硫黄製品
恵山山麓の蒸気精煉工場 硫黄鉱石を児童交走索道で工場まで運ぶ