沿革

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 旧山の硫黄は、元治元年4月古武井村の樵夫孫兵衛が伐木のため登山した時、字武佐沢で黒色の硫黄を拾い石炭ではないかと思い、その1塊を持ち帰り点火して、始めて硫黄であることを分かったと伝えられている。
 同年5月、古武井村総代善次郎(善次郎は名義のみで、函館弁天町、石川小十郎が資金を出し、同山の上町の貴田立本が実務を担当した)始めて開坑し、明治元年5月まで操業した。採掘した鉱石は旧精煉法により精製硫黄、約5年間で2千900石(435トン)を生産、駄馬・川崎船で函館まで運搬し大和船の船長に販売した。販売価格は極端に変動しており、100石(15トン)あたり180両~420両の幅があった。当時の需要先は主に幕府や諸藩で大和船の船長は、大阪・新潟敦賀下関等へ運搬し売却していたという。また、価格の高騰により、諸費用(採掘・精煉・運搬等)を差し引き100石(15トン)につき平均100両内外もの純益が上がることもあり、事業熱が旺盛となり、当時、戸井村に在った貸し付け金出張所より、当鉱山を抵当に金千円を借り逃亡する者が現れ、そのために廃坑となる。
 後(明治元年5月以降)北越の医師が2年半操業し300石(45トン)余りを生産する。その後(明治4年)函館の商人が1年半ほど操業し150石(23トン)余りを生産する。
 明治7年10月、泉藤兵衛、試掘の許可を得たが操業に着手せず、明治11年、借区開坑したが、僅か20石(3トン)余りを採掘して、同12年1月廃業する。
 元治元年5月から、明治12年1月までの旧山の総産出高は3千320石(500トン)余りである。
 新山は、村民の発見に係り、明治15年4月、函館大町山本巳之助試掘の後廃業する。
 明治21年7月、東京の富岡海蔵他1名、旧山・新山の試掘許可を得、同22年7月より借区操業を開始する。(今日ニ至レリ。明治24年3月28日出版)