[開拓使による鉱物資源の調査]

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 北辺防備・箱館港警備のため、武田斐三郎が、古武井の豊富な砂鉄で弁天岬砲台・五稜郭に備付ける大砲を造ろうとした熔鉱炉は、文久3年(1863年)6月14日の暴風雨により大破し廃棄となる。以降、この砂鉄が再び注目されたのは、江戸幕府が政権を返上し、明治新政府になってからのことである。
 大政奉還後の内戦、戊辰戦争も箱館戦争を最後に新政府軍の勝利に終わり、蝦夷地は北海道と命名される。新政府はこの未開の北海道の開拓が、近代国家として発展するために、重要な課題であるとの考えから「開拓使」を設置、中央省並の権限と破格の予算をつけ、開拓次官に箱館戦争で功績を上げた(海軍参謀)黒田清隆を任命する。黒田は旧幕僚・賊軍問わず有能な人材を登用、さらに、人材を求め、広大な国土を開拓し発展しつつあるアメリカへ自ら赴き、優秀な科学者・教育者や技術者を多数招聘(御雇外国人)した。
 これらの人々は、地質、鉱物調査・道路、鉄道建設・欧米式農業、諸工業指導・教育、人材育成等、北海道開拓の基礎づくりに大いに貢献した。