(3)榎本の尻岸内村での調査

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 榎本の尻岸内村での砂鉄については「北海道硫黄取調書(恵山、古武井、駒嶽、石倉村)」の『渡島亀田郡「シリキシナイ」領古武井澤硫黄取調書』の前書きに、次のように記している。
 
古武井沢はシリキシナイ村領に属する周囲四里に及べる一大沢にして、善良の鉄砂を産するは即ち此沢口の海浜なり。此沢地味膏腴(こうゆ)(肥沃)にして百菜に宜しく水利縦横にして山皆樹木に富めり。加えて鉄砂を産し、また、奥沢に硫黄を出す等実に六ケ場所中第1の良と称すべし事は、同所鉄砂取調中に詳なり。抑(そもそ)も我等嚮者(きょうしゃ)(前に)此地の鉄砂を研究するの次此沢に流るる一条の河を蹈て遡ること二里許にして、四山皆大樹多きを見て製鉄の一大助となるべきを喜び兼てまた他の鉱物を探討せんと欲し、山谷を徘徊せしに更に発見するものなく、加るに村民の予に従い来る者亦一語の硫黄に及ぶこと無かりしを以って、遂に空しく帰来れり。<…以下略…>」
 
 榎本は、砂鉄について、古武井沢は…善良の鉄砂を産するは即ち此沢口の海浜なり…と記し、さらに同所鉄砂取調中に詳なり…とあり、報告書の存在を記している。残念ながら、この鉄砂取調書なるものを見ることができなかったが、詳細に調査したことは確かである。榎本の調査については、『尻岸内沿革誌』に次のように記している。
 
 「明治五年に榎本は旗本の士八人を率いて約一ケ月にわたって根田内(字恵山)に宿し、主として硫黄の採掘を視察し、傍(かたわ)ら古武井硫黄鉱山や海岸砂鉄を試験した。後、一、二年に再び来て、約一ケ月間、野呂利喜松方に滞在し鱈肝油の製造を試みた。」
 
 また、この時詠じたと思われる榎本の漢詩が今に残る。(高倉新一郎氏所蔵)
 緑水青山相送迎  一荷行李旅装軽
 都内久忘漁郷夢  冴聴満江月濤声  録 古武井駅(梁川)
 
 なお、鱈肝油の製造が企業として成り立ったのは明治10年、函館支庁が茅部臼尻で試験製造に成功してからである。榎本の試みが1つの刺激になったことは事実であろう。