2、下海岸・陰海岸地方の郵便取扱所・郵便局の開設

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『開拓使事業報告・布令類聚上』より
 報告書には次のように、当時の下海岸への郵便の逓送の状況が記されている。
 
  開拓使事業報告・布令類聚上
 明治八年一月二十二日(元第六号)布達
 
 今般別紙日割ノ通リ下湯川村始メ八ケ所、本年一月二十二日ヨリ仮ニ郵便往復施行旨函館郵便局ヨリ申越。
    函館近郷郵便取扱所
 一 函館ヨリ根田内通ヘ向              二、七ノ日
 一 下湯川村ヨリ川汲へ向支線            二、七ノ日
 一 戸井下湯川・根田内ヨリ継来ル行嚢開閉両所ヘ継走
 一 根田内・川汲ヨリ函館へ向            四、九
                           三、八ノ日
 
 この報告書から、郵便物の逓送は月6回、5日間隔で行われていたこと、又、明治8年には「下湯川・根田内・川汲・戸井」に郵便取扱所が開設されていたことが分かる。
 
『郵便・駅逓・川渡守人名録』より(北海道立文書所蔵)
 この文書は開拓使地理課駅逓係の綴りで、なかに明治9年7月~11年9月までに支払われた郵便局の手当支給名簿が載っており、これからも当時の郵便局の存在が確認できる。
 
  明治十、九年ヨリ十五年ニ至ル
   郵 便
   駅 逓 人名録
   川渡守
                    地理課  駅逓係
 

北海道各郵便局等級御手当人名表(関係分抜粋)

 *萱部(茅部)当時、戸井村・尻岸内村・椴法華村は茅部郡の所轄下であった。
 この表にあるように明治9年から10年には下海岸の下湯川・戸井・根田内、陰海岸の尾札部川汲臼尻・鹿部・砂原・掛リ間と、沿岸の主要集落には制度発足以降相当な速さで郵便局が設置されているが、尻岸内本村・椴法華村についての記載はない。なお、両村の郵便局はこれより少し遅れ開設されている。
 ・尻岸内5等郵便局
  明治10年11月1日開設 取扱人(局長)秋田多三郎
 ・椴法華5等郵便局
  明治13年4月16日開設 取扱人(局長)荒木藤八
 この郵便局の取扱役(局長)任命の手続きの文書−副戸長及び村用掛の推挙・要請文が椴法華村史に記されている。当時のようすを知る上で大変参考になるので記載する。
 
『明治十二年各分署各区務所七重文移録』(椴法華村史より・北海道所蔵)
 
 函館支庁 駅逓係 御中
                   第十八大区一小区
                      副戸長 飯田東一郎
 駅百拾号ヲ以テ椴法花(ママ)村ヘ郵便局開設相成候趣ヲ以テ取扱役之義御申越ニ付該邨用係ニ撰挙為致当人取調候處身元実体人柄且又少シク筆算等モ出来候ノ者ニ付別紙撰挙状相添此段上申候也
  十二年七月十七日
 
 御請書
 
 一 今般当椴法花(ママ)村ヘ郵便局御開設ニ相成候趣ヲ以テ相当之取扱人至急 撰挙可申出旨御達有之候ニ付村中撰挙致シ候處、荒木藤八ナル者相当ニ付同人動産不動産及ヒ身元保証人共取調別紙相添此段御請申上候也
    第十八大区一小区
           御用掛
             明治十二年 第七月十六日 佐々木弥三郎
 
 この文書は、開設された椴法華郵便局取扱人に荒木藤八を推挙する、副戸長(第18大区1小区後の茅部郡の郡長)と村用掛(村長)の申請書である。その中で副戸長は村用掛が撰挙した人物の身元や人柄のよいこと、文筆も計算もできること、村の御用掛は財産があることをあげている。郵便局は国家の機関であり業務内容から、その取扱人には相当の見識と格式、且つ問題が生じた場合の保証ができる経済力も要求されたことが窺える。