古武井小学校(根田内小学校へ統合される前まで)

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 尻岸内学校で示したと同じ大蔵省の報告文書には、次のように記されている。
 
 古武井學校
 公立 渡島国亀田郡尻岸内村支村古武井ニ在リ 敷地三十五坪
 明治十三年   村民金百三十九円ヲ醵シ村民ノ漁業納屋ヲ借リ校舎トス
     八月 開業 古武井學校ト称シ変則小學科ヲ教フ
  十四年二月 山田某ノ家ヲ無賃ニテ貸与ス 因テ移転ス
     五月 更ニ協議シテ校舎新築ノ工ヲ興シ七月成ル
     八月 本校ニ移転ス
  十五年一月 請テ字東風(※山背泊)海面横六十間縦百三間ヲ限リ
        附属昆布場トス維持方授業料戸賦金ヲ以テス
 
 また「尻岸内町史」には『古武井小学校は、部落民からの寄付金一三九円を得て、明治十三年八月斉藤亀吉所有の納屋を改造して仮校舎とし、準訓導大内福寿を迎えて古武井教育所と名づけて開校した。生徒は僅かに八四人だったとある。すなわち終業年限四ヶ年の簡易教育所だったわけだ。』と、記述されている。
 しかし、上記の文書でも開拓使に残されている「訓導辞令録」等にも学校名が「古武井教育所」とは記されていない。目にした文書類すべてに「古武井學校」となっている。
 また、明治13年の町有文書には、
 
 古武井學校 公立 壱棟
 明治十三年八月建築 教員 大内福寿
 學齢 五十五人 就学 十四人 不就学 四十一人
 
とあり、初めから古武井学校となっており、在籍児童も84人ではなく14人で、就学率は尻岸内学校と同じ、ほぼ25%である。在籍児童数の違いは印刷時の誤植であろう。
 また、教員も根田内小学校に統合されるまでの記録は「尻岸内町史」でも、この大内福寿ただ1人しか確認されておらず、10年間の学校存続期間中、ただ1人ではないはずである。
 明治15年の「辞令簿」では大内福寿の辞令は、明治13年8月11日付きで発令されており、小学5等准訓導となっている。同じ「辞令録」には、「小学五等訓導 斎藤保之進 古武井学校在勤申付候事 明治十三年十二月十四日」ともある。続いて「古武井学校在勤 小学四等准訓導 斎藤保之進 上磯学校在勤申付ノ事 明治十五年六月二日」との記事がある。この斎藤氏が大内氏の後任教官、すなわち4ケ月たらずで、2代目の校長と入れ代わったと思われる。
 続いて、明治16年の「函館縣學校一覧表」には、古武井小学校の3代目の校長と思われる笹波清次郎の名が見られる。
 ただこの時代は、記録文書を見ると他の学校でも在職年数が1~2年前後の短期間での異動が多々見受けられる。
 そして、明治17年11月12日付けの「亀田郡役所伺届録」の中に、亀田郡長片岡新が函館県令時任為基にあてた次のような上申書がある。「古武井小学校職員任免之義ニ付上申当部下亀田郡第六学区古武井小学校六等訓導 留目政治儀 今般病気ニ付帰国之上療養致度趣ヲ以テ別紙之通リ……辞職ヲ出願……」とある。
 また、明治18年発行「函館縣學事第四年報」の「公立小學校表」には、小澤音十が校長として記されている。
 古武井学校が根田内学校と統合に至るまでの10年間の教職員等の記録は、町有文書には見当たらないが、現在判明している資料から大内、斎藤、笹波、留目、小澤の5代目までの校長の在職が認めることはできるが、5年間で5人が在職したことになっており、以後も校長の交代が当然あったと思われるが確認できない。
 この古武井学校も開校してから10年後の1890年(明治23年)に根田内学校に統合されるが、その事情を「尻岸内町史」には次のように記述されている。
 『開校以来根田内学校に合併するまでの間の記録が得られないので、詳細を知ることは今日では出来なくなっている。当時は学校維持管理に要する経費は村予算の上に大きな役割を占め、その財政を強く圧迫したらしく、明治二十二年十二月には「古武井教育所」を廃して「根田内学校」に合併した。』とあるが、村経費の支出増と家計維持のための家事労働などによる就学率の低下が統合の大きな理由であろうと考えられる。
 因に、この3校の学校運営にかかわる費用は、明治13年8月から14年の1年間の決算でみると次のようになっている。

[表]
尻岸内学校は8月以前に開校されている。)

 
 この年度の尻岸内村の予算は不明であるが、明治17年度「村協議費」の予算における収入総額は、901円88銭8厘で、そのうち教育費の支出額は393円30銭である。
 村予算に占める教育費は全体の44%ともなり、いかに学校維持のための負担が大きいかがわかる。また、授業料や教科書代、教材費、寄付金など個々の持ち出しも家計を圧迫したものと思われる。
 一方、学校では附属の昆布場を請け負うなど、児童の労働を得て学校維持を図らなければならない現実もあり、学習法や学力に対する疑問もあったのではなかろうか。
 古武井学校の根田内学校への統合は、このような理由からも村全体の意志であったものと考えることもできよう。