6、新制中学校の発足

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 明治40年(1907)以来40年、6年間であった義務教育年限を9年間に延長し、それまで袋小路になっていた小学校高等科・青年学校普通科の廃止、上級学校進学への道を開く「新制中学校」の発足は、新学制・民主教育の理念を最もよく象徴するものであった。しかし、改革の意味が大きかった反面、それは戦後改革の中でも最も大きな困難と混乱、そして国民への負担をもたらした。
 その最も大きな原因は財政の貧困であった。さらに、予算の基礎となる生徒数に大きな誤算が生じ、新制中学校発足1年目、校舎建築の予算措置がないままの出発となった。
 昭和22年、文部省が計上した予算案は68億4千500万円余り、この内、約3分の2を占めるのが、増加教室建設費42億2千700万円であったが、大蔵省はこれを全額削った。大蔵省の見解は「これまでの国民学校初等科卒業生の進学率は、高等科・青年学校・中等学校を含め97パーセントである。義務制になっても99パーセントとみれば、これまで平均50名収容していた教室に52名収容すれば、1学年度のみ実施するに於ては教室増加の必要は全くない」というのであり、教室建設費全額を削減する理由であった。
 しかし、この予想(積算)は全く誤っていた。
 修業年限3年間の新制中学校という制度が確立されたため、当時、義務制が延期されていた高等科1・2年が相当数在席しており−この生徒が昭和22年度、そのまま新制中学校に編入すれば2・3年となるわけである。高等科2年生の多くは旧制度で卒業したが、−内、高等科1年生の殆どは新制中学校に編入したのである。
 大蔵省の試算では新制中学校初年度の入学予定者は216万人であったが、実際にはこのような実態で、過年度卒業生(高等科・青年学校生徒)を含め319万人に達し、103万人の増加となった。加えて、大蔵省の試算では、前述216万人分の教室はそのまま中学校として使用できる筈であったが、これも実情を把握していないデスクプランで、実際には56万人分の教室は使いものにならない状態であることもわかった。結局103万人の増加に56万人加わって159万人分の教室が不足したわけである。この積算(誤算)が何にもとづくものなのか分からない。
 もともと小学校や事業所なども合併して設立されていた青年学校の校舎等を、そのまま新制中学校の校舎として使用できる、という誤算、あるいは安易さそのものの中に、官僚の教育、就中初等教育に対する認識水準があったのかもしれない。
 これらの実態が確認される少し前、昭和22年2月、閣議はそれまで小学校と校舎を共有していた高等科・青年学校を意識して(新制度ということ)中学校は独立校舎にする、と決定していたが、この決定も結果的には画餅に過ぎなかったわけである。
 このような実態−大蔵省の誤算による教室不足をそのままにして、第一次吉田内閣の石橋湛山蔵相は、貴族院本会議で「教育を決して軽視しているわけではないが、飢餓線上にある国民をくわせるにきゅうきゅうしている現状では、全く財政上の余裕がない。六・三制の実施にも中央、地方を通じて多大な経費を要する」と開き直りともとれる答弁をした。
 このようななかで発足した新制中学校は、当然のことながら教室の確保に苦渋した。小学校との教室の共用、廊下や昇降口を利用した急造教室、旧兵舎や倉庫、馬小屋、果ては隔離病院まで使った教室が出現、まれには青空教室と称して露天での授業も行った。
 (以上第8節戦後の教育改革1~6は「日本の教育 文教政策研究会発行」を参考とした。)
 
尻岸内村の新制中学校
 このような経緯の中で尻岸内村にも、いやおうなしに新制中学校が創立され、昭和22年(1947)5月1日、日浦中学校・尻岸内中学校・古武井中学校・恵山中学校が、それぞれ日浦・尻岸内古武井・恵山(註)各小学校に併置・開校し、校長は各小学校長が兼務した。翌23年11月8日村臨時議会が開催され、村長より新制中学校の独立校舎建設について「2つの案」が提案されたが、これは統合が前提となっていた。すなわち、第1案は現在の新制中学校4校を統合し村内1校にする案で、第2案は日浦・大澗地区1校、古武井・恵山地区1校の2校にする案であった。議会は審議の上、第2案を採択した。
 昭和26年4月、字女那川176番地の5~6に校舎を新築、尻岸内中学校と日浦中学校を統合、校名を「尻岸内第一中学校」とした。翌27年3月31日には、古武井・恵山両中学校を閉校し、同4月1日「尻岸内第二中学校」を創立、新校舎完成まで古武井・恵山小学校を仮校舎で授業を行う。27年8月20日、新校舎完成、古武井・恵山分校を閉鎖、新校舎へ移転を完了、同月23日新校舎落成式を挙行した。
 昭和29年2月1日尻岸内第二中学校の校名を「東光中学校」に改称し、同年4月1日、尻岸内第一中学校も校名を「尻岸内中学校」と改称した。
 以上が、郷土の新制中学校創立の概略であるが、その発足当時の経緯について、尻岸内中学校・東光中学校の沿革誌から主な事柄をひろい記すこととする。
 (註)昭和8年4月、尻岸内村字名の改名により根田内小学校を恵山小学校に改称する
 
尻岸内中学校沿革誌より〉
昭和22年3月29日付
 ・法律第25号により教育基本法公布(昭和22年3月31日)
 ・法律第26号により学校教育法公布(昭和22年3月31日)
昭和22年5月23日付 
 ・文部省令第21号により「学校教育施行規則」が定められ六・三制実施となる。国民学校は小学校と改称する。小学校の義務制は6年にして、高等科は廃止される。新制中学校3年にして昭和22年度1年生のみ義務制となる。5月1日より発足する。
 すなわち、国民学校高等科に在席していた(新制中学校2・3年に編入予定の)生徒は任意入学であった。(これは教室不足をなんとか補うための措置か……)
創立22・5・1
 ・亀田郡尻岸内村立尻岸内小学校に新制中学校を併置する。
 ○亀田郡尻岸内村立「尻岸内中学校」と称す。
25・3・26
 ・日浦・大澗地区における新制中学校(尻岸内中学校)独立校舎の敷地を字女那川176番地の5~6に決定する。
  5・1
 ・校舎敷地の整地、旧ベニヤ工場貯水池の埋戻し作業を開始する。
  7・10
 ・校舎建設・函館市の渡部俊雄との間で工事請負契約が締結されこの日より工事着工される。
26・3・23
 ○本校々舎並に附属舎併せて289.5坪新築完成する。
 
  ・校舎本屋
    建築構造 木造亜鉛葺平屋建(229.5坪)
    工事費    6,007,836円
     内、起債  2,900,000円
       補助  2,876,400円
     一般歳入   232,436円
   ・教員住宅1棟2戸、25坪を同時に建築完成する。
    工事費     333,400円
 
26・4・2
 ・校舎新築落成の上、独立校として開校する。
 ・亀田郡尻岸内村立日浦中学校(単級1学級)統合する。
 ・亀田郡尻岸内村立尻岸内第一中学校と称す。(校名変更)
29・4・1
 ○亀田郡尻岸内村立「尻岸内中学校」と改称す。(校名変更)
  5・23
 ・屋内体育館建設のため地鎮祭を行う。
  5・25
 ・工事着工、6月28日上棟式を行う。
  9・16
 ・本校屋内体育館129坪と廊下8坪(計137坪)を新築完成する。
   工費  3,839,700円
   工事請負業者 森工務店 森 清治
30・3・30
 ・本校々舎1教室27.5坪増築(ポーチ1.5坪)
33・6・11
 ・校門及び郁生橋を新設する。
  11・31
 ・校長住宅新築完成(21.5坪 工費716,500円)
34・4・24
 ・本校舎(331坪)全焼する。体育館(137坪)類焼免れる。
  4・27
 ・尻岸内小学校々舎の一部を借り6学級編成で授業開始する。
34・10・16
 ・新校舎建設地鎮祭を行う。
35・4・1
 ・7学級編成となる。
  4・22
 ・新校舎上棟式を行う。
35・6・14
 ・新校舎落成式挙行。翌15日、新校舎に移転する。
 
〈東光中学校沿革誌より〉
昭和22・5・1
 ・六・三制の実施により恵山・古武井小学校に新制中学校を併置する。
 ○亀田郡尻岸内村立恵山中学校、同古武井中学校と称する。
26・5・19
 ・六・三制準備委員会を構成、独立校舎設計を討議し村立恵山中学校並びに村立古武井中学校生徒を統合のうえ収容し、校名を尻岸内村立尻岸内第二中学校とすることを決議する。
  6・18
 ・尻岸内村立尻岸内第二中学校々舎を字柏野11番地に建坪315坪を以て新築の件を議決する。
  11・14
 ・新校舎建築委員会を構成する。
  11・19
 ・第1回建築委員会開催、着工のための具体案を検討する。
  12・3
 ・恵山小学校に於て工事入札施行の結果、総工事費673万円を以て、函館市土建業者、阿部組(代表 阿部松雄)と工事契約成立する。
27・2・20
 ・尻岸内村立尻岸内第二中学校設立準備会を古武井小学校で開催、役員を決定する。
  3・31
 ・村立恵山中学校並びに村立古武井中学校廃止認可申請を上申する。
創立27・4・1
 ○亀田郡尻岸内村立尻岸内第二中学校創立する。
 ・新校舎竣工まで、恵山、古武井小学校の校舎の一部を仮校舎として、7学級編成を待って授業を開始する。
 ・同日付を以て恵山、古武井両中学校職員任命替発令される。
 ・村立尻岸内第二中学校教諭斉藤孝造校長代理として発令同日就任する。
  5・1
 ・村立尻岸内第二中学校校長代理斉藤孝造を解任、同日、同校初代校長として発令され即日着任する。
  5・6
 ・新校舎上棟式を挙行する。
  7・1
 ・村立尻岸内第二中学校PTA総会を古武井小に於て開催活動を開始する─。
  8・20
 ・新校舎工事完了し検定を終わる。仮校舎旧施設の移転を完了する。
27・8・23
 ○新校舎落成記念式典並びに祝賀会を開催する。(この日、昭和27年8月23日をもって開校記念日とする)
 
 ・校地・校舎
  校地面積   2,700坪
  校舎起工   昭和26年12月10日
  竣  工   同 27年8月23日
   「本屋」総工費 8,021,000円
   模様 木造平屋建、外部塗装仕上、屋根亜鉛引、鉄板葺ペイント仕上、床フローリング、南面窓二重装置、玄関昇降口床コンクリート、煙筒アスガラコンクリート積み10基
   建坪 総坪数 315坪
      校舎248坪、普通教室7教室(140坪)、職員室(20坪)、廊下・昇降口・玄関(88坪)、附属舎(宿直室・使丁室・湯沸室・職員便所・廊下等)(67坪)、器具室・手洗い場・生徒便所等(32坪)、渡廊下(3.5坪)
 ・教員住宅 1棟2戸 25.5坪
       工費408,000円
 
28・10・26
 ・体育館建設敷地設定のため、恵山漁業組合を会場に、第1回協議会を開催する。参加者、吉田PTA会長、南村会議員、田中福松・泉良一・斉藤貴吉・大坂寛の各委員、学校側、斉藤校長・松村教頭等出席、協議。建設敷地交渉委員として、会長吉田亀蔵・監事村田勇・理事大坂長丈の諸氏と斉藤校長を選出、即日夕刻、牧場組合長長田市太郎氏宅を訪問し協力を要請、快諾を得て辞する。
29・2・1
 ○校名を亀田郡尻岸内村立「東光中学校」に改称する。
 ・校名変更を議題としてPTA会議を開催、提案された新校名「尻岸内村立東光中学校」を議決、村教育委員会への諸手続きを完了し(承認)2月1日より実施する。
 ・学校側としては村発展の将来性を考え、尚、秀峰恵山、恵山魚田を強く象徴した校名、恵山中学校を呼称したく関係者に熱望するも、残念ながら受け入れられなかった。
  3・3
 ・PTA会長吉田亀蔵・監事村田勇・学校長斉藤孝造の3氏は南石松氏所有畑地を代替地による学校体育館敷地として提供することを承諾、同時に長田市太郎氏も代替を承諾する。
 ・茲に南石松氏所有畑地730坪が体育館建築用地と決定する。
  7・26
 ・体育館建築、地鎮祭を行う。8月25日上棟式を行う。
  11・10
 ・本校体育館108坪・渡廊下8坪・附属建物18坪竣工する。
  工費 3,840,900円 工事請負業者 森工務店 森清治
  11・15
 ・教員住宅1棟3戸完成する。
32・1・20
 ・普通教室2教室(55坪)増築を完成する。
  工費 863,000円  工事請負業者 藤原 孝
32・4・1
 ・1学級減じて7学級編成となる。職員定数11名。
33・11・13
 ・校長住宅新築完成(21.5坪 工費 716,500円)
 
 以上、尻岸内中学校・東光中学校の沿革誌より、昭和22年5月六・三制による新制中学校創立以来、大変な道程の10年余りについて特記すべき事項を記してきた。
 以下については、そのなかから、敗戦直後の逼迫した村財政のもとの独立校舎建設敷地の確保についてと、発足10年校舎・諸設備も整い軌道に乗りかけた矢先の、尻岸内中学校の校舎全焼・復旧対策について記すとともに、当時の教育に対する村・村教育委員会の取組み、それを支えたPTA・地域住民の協力体制について述べたいと思う。
 
独立校舎の建設へ
 国内すべてが同じように、村の財政は極めて貧弱なのに加え、建築資材も不足がち、この事業(校舎新築の)を完遂するには相当な決意を要したし、住民の相当の協力も仰がなければならなかった。まず、校地を確保しなければならないが、民有地を買うにしても高値であり、若干の国費補助はあるが村費の負担が大きく、財政は非常に苦しかった。
 そこで、尻岸内中学校(当時は尻岸内第一中学校)の敷地については、国有農地の払下げを村が受けて、それを充てることとした。なお、東光中学校(当時は尻岸内第二中学校)の敷地については、地元父兄の理解ある協力や斡旋によって、土地所有者から土地提供の快い承諾を得、校舎敷地はほぼ決定していた。
 
尻岸内中学校の校舎敷地〉
 村は国有農地の払下げを申請する目的で、尻岸内村農地委員会の開催を要請した。
 ・昭和25年9月6日「第21回尻岸内村農地委員会」を開催する。
 ・出席委員、1番山本鉄蔵、2番中野仁助、3番野呂力松、4番中森睦人、5番井戸竹作、書記吉田一郎、参与(助役)三好信一、書記(教育係)梅川典生
 ・議案第2号 国有農地を独立校舎敷地として町村払下げ其手続すること承認の件
 ・議長提案 不耕作地を買収、個人売り渡しを一応保留、自作農創設特別措置法第16条第2項を考慮し、其筋へ折衝国有農地とする。
 
 委員会の話し合いについては省略するが、国有農地の町村への払下げには法令上の問題があり(承認はできないわけではないが)、当時の情勢からみて容易なことではなかった。すなわち食糧難の時代であり不耕作地といえども使用目的変更の適用は難しかった。
 ところが翌26年1月9日、道の農地部長からの通牒によって、新たに国有農地の借入手続きの途が開かれたのであった。以下に農地部長からの通牒(要件)を記す。
 
 昭和二六農地第四五号 農地部長通牒
 措置法及び農調法の適用を受ける土地の譲渡に関する政令の施行に伴い国有農地等の一時貸付及び国有財産台帳の取扱いに関する省令の一部改正について
 注=国有財産台帳の取扱いに関する省令(昭和25年10月28日農林省令第122号大蔵農林省令第3号)
 一 都市計画区域内の売渡し五か年保留の国有地については、この制度の性格上現実に宅地化が進んで周囲の客観的条件からして潰廃もやむを得ないと認められるものに限り貸付けることができる。この場合耕作者の離農の同意は勿論、旧所有者の同意を必要とすること。
 二 其の他の売渡未済の国有農地等にあっては、当該国有地が直接公用又は公共用に供せられる場合、当該事業の内容が明確に公共性を有する場合、其の他農業上の利用増進のため、又は農業経営改善のために供せられる場合等、当該農地を農地として利用するよりも、明らかに国民経済上効率的であると認められる場合で、他に用地を求めることができないと認められるときに限り貸付けることが出来る。この場合も耕作者の離作による同意、旧所有者の同意を得ることを必要条件とする。
 
 この通牒の第2項によって、尻岸内中学校々舎敷地予定地の、旧地主三箇友次郎氏の同意書を添付、昭和26年3月、次に記す国有農地の借受申込書を提出したのであった。
 
  国有農地等借受申込書
 一、農地の表示 女那川一七六ノ五 畑 二町一反三畝二十五歩
         不耕作地
         女那川一七六ノ六 畑 三反二畝 〇七歩
         不耕作地
 二、事 業   六・三制 独立校舎及附属建物敷地
 三、施設の概要 校舎及住宅敷地 二千百二坪 運動場 五千二百八十坪
  右、国有農地等一時貸付規則第六条の規定により申請する。
    昭和二十六年 三月 日     亀田郡尻岸内村 前田時太郎
  北海道知事  田 中 敏 文 殿
 
 この申込書は受理され、早速土地を借受け昭和26年3月23日には、尻岸内第一中学校の独立校舎の竣工をみたが、その後、昭和32年7月2日、農地法第80条の規定により国有財産売払処分の通知を受け、同7月10日、売払代金1,890円を支払い尻岸内村に所有権を移転、名実ともに、尻岸内村・尻岸内中学校の財産となったわけである。
 
〈東光中学校の校舎敷地〉
 東光中学校(当時は尻岸内第二中学校)の独立校舎については、先に述べたように地域の人々の所有地提供により校舎敷地が確保された。
 以下に所有地を提供された方々を記す。
 
  村上 幸二 字柏野9の2・10の5 (309坪)
  佐々木 隆 字柏野11の2    (311坪)
  笹田 松蔵 字柏野1の2     (700坪)
  福澤長五郎 字柏野1の3     (1,005坪)
  品田 政蔵 字柏野14の2    (555坪)
  品田常五郎 字柏野14の1    (570坪)
  南  石松 字柏野15の1    (126坪)
  長田市太郎 字柏野1の6     (586坪)
  藤谷直太郎 字柏野1の7     (455坪)
   以上、9名 10筆
             合計 1町5反3畝27歩(4,617坪)
 
校舎敷地、地ならし工事 このようにして両校の校舎敷地は確保されたが、両土地とも状態はよいとはいえず、相当の盛土や整地をしなければならなかった。おりしも、昭和24年から25年にかけてはホッケやニシンなど漁模様が思わしくなく漁家の現金収入も乏しかった。そこで、村は緊急に失業対策事業として校舎敷地・グラウンド造成の工事を進めることとした。当時は村にもブルドーザーやダンプカーといった重機や機動力などはなく、せいぜいが馬車を使うぐらいであとはすべてが人力、ツルハシやスコップで土砂を掘り起こしモッコで土を運ぶといった、原始的な方法で工事は進められた。したがって、この失業対策事業だけでは思うように作業は進まず、結局、グラウンドの一部の工事は父母や教職員・生徒の労力奉仕を仰がなければならなかった。以下に当時の緊急失業事業の実態を記す。
 
「昭和25年度、ホッケ・ニシン不漁に伴う緊急失業対策事業」
 
 1、尻岸内第一中学校校舎敷地工事(尻岸内中学校)
  ・工法 運搬盛土敷均し6,600立方メートル
  ・総工費80万円 ・施工期間70日間
  ・実人数50人(延人員3,500人) ・人夫賃64万円
  ・馬車賃16万円
 2、尻岸内第二中学校校舎敷地工事(東光中学校)
  ・工法 運搬・盛土・敷均し
  ・埋戻し9,700立方メートル ・総工費114万円
  ・施工期間70日間 ・延人員4,200人 ・人夫賃84万円
  ・馬車賃30万円
 
尻岸内中学校の火事と災害復旧事業〉
 昭和34年4月24日夕刻、尻岸内中学校々舎の一部より出火、体育館の一部を残して全焼、翌日の『北海道新聞』には次のように報道された。
 
 “尻岸内中学校焼く”【尻岸内発】
 二十四日夜、尻岸内中学校校舎から出火、水利の便が悪く体育館の一部を残し全校舎を焼失した。
 同日午後七時三〇分ころ尻岸内村字女那川五二、村立尻岸内中学校校長内山清氏(五一)の西北側小使室天井裏付近から火が出て燃え出したのを小使の山口エツさん(四三)が見つけ消防団に通報した。直ちに地元消防団をはじめ古武井、恵山、日浦部落や隣接の戸井、椴法華両村から消防ポンプ一台、消防団員二百人のほか村民数百人がかけつけ必死の消火につとめたが、校舎位置が高台で水利の便が悪く三百メートル離れた冷水川から水を引いて放水するなど困難な作業を続けた結果、木造平屋一むねの同校舎中、屋内体操場四百六十二平方メートルの一部を残し、教室六、特別教室一のほか校長室、宿直室、小使室など千四百二十一平方メートルを焼いて同八時三〇分ようやく消えた。
 原因は函館中央署で調べているが、集合煙突の過熱らしい。損害約二千万円。
 同校は昭和二十六年三月完工、同二十九年四月増改築したものであるが、水利が悪いので防火用水の設置が望まれていたところである。
 同村ではとりあえず、同中学校は二十五日は授業を休み二十六日から近くの尻岸内小学校で授業を始める措置をとり、PTAでは二十四日夜緊急総会を開き対策を練った。
内山清校長の話 学校火災多発の折、本校を焼き誠に申し訳ない。発見は比較的早かったが、水利が悪く全焼してしまった。校舎を失った生徒達のため一日も早く正常な授業をしたいと考えている。
            『昭和三十四年四月二十五日付 北海道新聞』
 
 火災2日後の27日より、尻岸内中学校は尻岸内小学校の校舎一部を借り6学級編成で授業を開始した。以下、村・村教育委員会の対策、災害復旧計画事業について町有文書をもとに新校舎落成までの概略を記すこととする。
 
尻岸内中学校屋内体育館災害復旧事業 尻岸内中学校校舎、昭和34年4月24日不慮の火災により全焼、これがため屋内体育館も類焼を受け、屋根、床、壁などを焼き一部残存(137坪のうち62坪焼失)しているので、校舎の復旧と共に屋内体育館の復旧をなし早期に正常授業を期する。
 
 ・工事内容(母屋工事・鉄板葺替・柾葺替・ペンキ塗装・フローリング張替・壁・ガラス・電気工事等)
 ・事業費(377,000円)
 ・財源(国庫補助金193千円一般歳入107千円起債78千円)
 ・事業の工期(34年11月4日~34年11月30日)
 
 11月7日、焼け残った体育館の復旧工事が始められ、予定通り完成した。
 
村の尻岸内中学校災害復旧計画 戦後、六・三制の実施により、昭和26年3月創設した尻岸内中学校は木造平屋建、屋内体育館を含め454坪、生徒数263名が在籍していたが昭和34年4月24日、不慮の火災により屋体の一部を残すのみで校舎は全焼した。爾後、応急対策措置として尻岸内小学校の一部と残存した屋内体育館に於て、辛うじて授業を続けているが、教場は立錐の余地なしの状態で勉学上の悪影響も多く、災害復旧工事を起さんとするものである。

尻岸内中学校災害復旧事業(計画)』

 ・事業費 16,824,000円
 ・財 源 起債13,600千円 一般歳入3,824千円
 ・工 期 昭和34年10月17日より同35年5月31日まで
 
 昭和35年6月15日、鉄骨ブロック不燃性の立派な新校舎が落成、移転した。
 
尻岸内中学校災害復旧事業(完成した校舎)』
 
 ・建物の構造  鉄骨ブロック、亜鉛葺平屋建
 ・事業内容   普通教室8 校長室1 職員室1 宿直室1 玄関1
         廊下1 便所1 小使室及湯沸室1 計 327坪
         ほかに木造の渡廊下25坪 合計352坪
 ・事業費及財源 事業費  16,734千円
          起債  13,000千円
          一般歳入 3,734千円
 ・工事請負業者 函館市 登茂江建設株式会社 諏江源次郎
 
尻岸内中学校校舎・施設設備の充実〉
 この間、尻岸内中学校は毎年生徒数が増え続けそれに伴い学級数も増加した。
  34・4・27 6学級編成(34年度生徒数250名)
  35・4・ 1 7学級編成(35〃 〃  301〃)
  36・4・ 1 8学級編成(36〃 〃  374〃)
  37・4・ 1 9学級編成(37〃 〃  397〃)
  39・4・ 1 10学級編成(39〃 〃  415〃)
 戦後生まれの子供たち、いわゆる団塊の世代が入学してきたこの時代、尻岸内中学校の場合も毎年生徒数は増加し40年に最も多い427名を記録、以降、若干の増減はあったが現在は減に転じている。この間、教室も増築しなければならなかったし、教員の定数増により住宅の確保にも苦慮しなければならなかった。
 
技術・理科の特別教室の増築
 38年4月1日、技術・理科の特別教室(98坪)と昇降口(2.5坪)を増築落成する。
 ・建物構造  鉄骨ブロック亜鉛葺平屋建
 ・事業内容  技術及び理科教室
 ・事業費   6,500千円
   財源 国庫補助2,350千円 起債2,000千円
   一般財源2,000千円
 ・工事請負業者 平谷建設株式会社 平谷好道
自転車置場(20間)
 38年12月13日(事業費16万円)自転車置場を建設する。
教員住宅の新築
 39年2月27日には教員住宅(2棟4戸)を建築する。
 ・事業量  教員住宅2棟4戸
 ・事業費  2,430千円
   財源 国庫補助418千円 起債1,730千円
      一般財源282千円
普通教室、2教室の増築
 40年1月18日には39年の10学級編成に伴い、普通教室2(37坪)と体育館南側に廊下(18坪)を事業費357万円で増築、体育館には 事業費205,000円で4坪の更衣室、体育器具室4坪・消防器具置場2坪を付設、自転車置場9間増設、車庫4.5坪を新築し施設設備を充実させていった。
 
 41年には桜の苗木70本・洋松の苗木を校庭に植栽、グラウンドには鉄製パイプの野球用バックネットを設置するなど環境整備に力を入れる。
家庭科特別教室(50坪)を新築
 同じく41年12月29日、女子生徒待望のこの建物の構造は鉄筋補強ブロック亜鉛葺平屋建・事業費は375万円(国庫補助1,560千円 起債1,600千円 一般歳入1,600千円)という立派なものであった。さらに特別教室と本校舎は渡廊下で結ばれた。
教員住宅の新築
 この年、常に不足状態にあった教員住宅も、事業費148万5千円(国庫補助573千円 起債800千円 一般歳入112千円)で1棟2戸を新築し、教員住宅については一応充足した。
 同窓会が設立・校歌(作詞館洞光宏、作曲小泉武夫)制定されたのも41年である。
 
〈東光中学校の校舎・施設設備の充実〉
 34年3月9日には、生徒数増加による校舎増築を考慮し、校地拡張のためブルドーザーによる整地を行う。また、10月には尻岸内中の火災を教訓に、校地南西側にコンクリート製の防火水槽を築造し、11月27日には消火用動力ポンプが配置される。
 35年8月には校舎正面通学路がコンクリート舗装され、物置(4坪)を増築する。
普通教室3教室を増築
 36年8月25日、校舎増築用地をブルドーザーで整地完了、翌26日より工事開始、12月25日、校舎増築(教室3・玄関1)工事完了する。
 ・事業量 普通教室3(60坪) 廊下(22.5坪) 生徒用玄関(9.5坪)
 ・事業費 3,680千円
   財源 国庫補助1,237千円 起債1,700千円
      一般歳入743千円
 ・工 期 昭和36年8月26日から36年11月10日
 ・工事請負者 藤原孝
理科室・工芸特別教室を増築
 38年11月1日に工事開始、翌39年2月25日に、工事完了する。この工芸室とは美術・技術の教科に利用される多目的特別教室である。
 ・事業量 理科・工芸特別教室(50坪)
 ・事業費 2,250千円
   財源 起債1,000千円
      国庫補助、一般歳入については不明
 ・工事請負業者は藤原孝
自転車置場(20間)
 40年1月25日、工費15万2千円で建築。
教員住宅1棟2戸(27坪)
 12月5日、事業費148万5千円(国庫補助513千円 起債800千円 一般歳入173千円)で新築、工事請負業者、藤原孝
音楽・家庭科特別教室を増築
 41年3月2日には、前年の10月13日から工事していた、生徒も地域も待望の音楽室と家庭科室が完成する。
 ・事業量 音楽・家庭科特別教室(78坪)及び廊下
 ・事業費 10,897千円
   財源 国庫補助1,492千円 起債2,400千円
      一般歳入7,005千円
 ・工 期 昭和40年10月13日から41年3月2日
屋内体育館の増築
 41年12月には、生徒数増加のため手狭となっていたことと、バスケットなど、正規なコートがとれる広さを要求していた体育館(45坪)が、ようやく増築・拡張され地域からも大いに歓迎される。
 ・事業量 体育館増築拡張
 ・事業費 2,475千円
   財源 国庫補助1,096千円 起債1,000千円
     一般歳入379千円
 ・工 期 昭和41年10月29日から41年12月27日
 ・工事請負業者 高橋留吉
 
 以上、新制中学独立校舎建設の敷地確保と尻岸内中学校の火災、直後の災害復旧事業を中心に、以降、6年余りの期間の学校施設設備について記してきたが、この間、尻岸内村は昭和39年9月30日、役場新庁舎の落成、11月1日には大幅な人口増と地場産業の発展により、待望の町制施行と行政的にも町勢も充実・発展しつつあった。これも、わが国の産業の復興・経済発展、国政・行政の充実によるところではあったが、郷土に於ても漁業の盛業と、戦後早く開発に着手した砂鉄鉱山が昭和30年代に入り製鉄業の活況に、施設を投資、増産するなど、町税収入に影響を与えたところも見逃せない。