六・三制と教育委員会は、戦後の教育改革の2本の柱ともいわれる。
それは、そのとおりなのであるが、実は、日本に教育委員会制度が取り入れられたのは、明治12年(1879)のことで、アメリカの制度を参考とし、住民の選挙により選出された「学務委員」が小学(小学校)事務を管理したことに始まる。
明治13年(1880)には住民が2~3倍の候補者を推挙し知事・県令がその中から学務委員を選任して、これに戸長(町村長)を加えるという構成に改められた。この学務委員が学校の管理に当たるという、まさに、現在(いま)にいう教育委員会の制度なのであった。
『学務委員』が選出された翌年の明治13年は「尻岸内・古武井・根田内」の3校が「公立学校設立伺」を提出した年である。以下、各校の提出者名である。
渡島国茅部郡尻岸内村 惣代兼学事世話係 野呂巳之助
学事世話係 小沼 景義
学事取締兼戸長 吉岡 新蔵
渡島国茅部郡尻岸内村古武井 惣代兼学事世話係 野呂巳之助
学事世話係 福沢安五郎
学事世話係 佐々木久助
学事取締兼戸長 吉岡 新蔵
渡島国茅部郡尻岸内村根田内 惣代 大坂 力松
学事世話係 廣島萬兵エ
学事世話係 手代森重蔵
学事取締兼戸長 吉岡 新蔵
この提出者の肩書に「学事世話係」あるいは「学事取締」とある。当時、そのような役職が存在したとは考えにくい。公立学校設立を機に、北海道にも府県の学務委員に準じた役職「学事世話係」を任命し伺を提出させ、設立後は学務委員と同様の小学事務の管理を行わせたと考えられないか。
ところが、この制度は明治18年(1885)廃止され、市町村制の整備後の明治23年(1890)に、市町村長の補助機関として学務委員制度は生まれ変わった。そして、戦後の昭和23年(1948)、教育委員会法が制定されるまで受継がれた(註1)。
ただ、改定後の学務委員制度は“諮問的機関であって教育委員会ということはできない”といわれている。
以下に尻岸内村の学務委員について記す。
尻岸内村の学務委員 尻岸内町史によれば、学務委員の組織規程は明治39年(1906)7月3日「告示第17号」で発布されたのが最初である(註2)。学務委員の構成は①村会議員から3人、②公民代表3人、③教員から4人としたが、大正7年(1918)9月10日「告示第31号」で改正、①村会議員4人、②公民4人、③教員4人とした。さらに、昭和3年(1928)7月31日「告示第21号」①村会議員2人、②公民4人、③教員4人に改正された。以下、尻岸内町史に記された昭和6年から18年までの学務委員である。
〈昭和6年~18年の学務委員〉
村会議員 玉井長次郎・田中玉吉・梅津喜代治・由良良徳・浜田伊三郎
館山周吉・笹川蔵太郎・中野由太郎
公民代表 東 政蔵・大吉小太郎・山田長平・泉七太郎・中野由太郎
館山周吉・若山常太郎・浜田伊三郎・梅津喜代治
竹内蔵之助・川畑与作・梶原吉太郎
教員代表 菊池弥吉・黒川国蔵・神谷如意・丹野利吉・高橋喬
渡部喜一郎・問谷市三郎・木元平吉・高村光有・野田与之吉
金沢市松・相沢潔・久住要太郎
昭和6年以前の学務委員
昭和6年以前の学務委員について、日浦・尻岸内・古武井の各小学校の沿革誌より拾ってみたが、欠落している部分や恵山小の火災で消失するなど不備な名簿となった。
日浦小学校区内の学務委員
若山 徳蔵 明治43・ 7~大正 4・ 6 村会議員
重茂昌太郎 明治45・ 5~大正 4・ 6 日浦小学校長
西郷 文平 大正 4・ 6~昭和 3・ 9 日浦小学校長
東 豊三郎 大正 6・10~昭和 3・ 3 日浦漁業組合長
松本専太郎 大正 7・10~昭和 3・ 3 村会議員
尻岸内小学校区内の学務委員
高橋常之助 明治43・ 6~大正 5・ 3 尻岸内郵便局長・村会議員
関 精造 明治44・ 5~大正 2・11 尻岸内小学校長
竹内金太郎 大正 2・ 6~大正 3・12 尻岸内漁業組合長
中村峰次郎 大正 3・ 1~大正 4・ 1 尻岸内小学校教員
溝江 留吉 大正 4・ 1~大正 9・ 9 尻岸内小学校長
柳本 三郎 不 詳 ~大正 7・ 4 女那川地区部長・村会議員
濱田伊三郎 大正 4・ ~大正 7・10再選 尻岸内西部部長・村会議員
湊谷 保司 大正 7・10~ 不 詳 村会議員
志村 正英 大正10・ 1~大正12・ 3 尻岸内小学校長
古武井小学校区内の学務委員
成田文次郎 *明治34・ 4~明治39・ 3 古武井漁業組合長
福沢 善助 明治39・ 7~明治40・ 5 漁 業
江口 儀助 明治42・11~明治43・11 山縣鉱山鉱長・村会議員
田口角太郎 明治43・ 6~大正 6・10 山縣鉱山事務員・村会議員・部長
大西 高尚 明治43・ 7~大正 6・ 3 古武井小学校長
河村 儀市 明治44・12~大正 5・ 5 商業・村会議員
大島菊四郎 大正 4・ 1~大正11・ 5 古武井地区部長・村会議員
井口 利盛 大正 6・ 7~大正13・ 5 古武井小学校長
永田 長松 大正 7・10~大正 9・ 5 商業・古武井地区部長
仲村 松蔵 大正 9・ 6~大正15・ 6 漁 業
山田 長平 大正11・ 5~昭和 漁業・村会議員
佐々木 健 大正13・ 5~大正15・ 6 古武井小学校長
梅川金五郎 大正15・ 6~昭和 4・ 4 漁業・村会議員
松家 誠忠 大正15・ 6~昭和 3・ 3 古武井小学校長
昭和16年4月、学務委員の規程は「国民学校令」により、翌年の7月30日「告示第23号」発布により次のように改められた。
『国民学校学務委員組織規程』
「第一条、本村国民学校学務委員ノ定員ヲ十人トス 第二条、学務委員ノ組織ハ左ノ如シ、学校職員二人、村会議員四人、公民四人、附則、本規程ハ発布ノ日ヨリ之ヲ施行ス」というもので昭和19年(1944)2月15日選任された学務委員は次のとおりである。
・村会議員 松本専一郎・館山周吉・福沢留蔵・岩田末松
・公民代表 東政蔵・海老名喜久馬・山田長平・吉岡袈裟吉
・学校職員 金沢市松・千葉成尚
この規程の第2条、青年学校の学務委員規程もあり、以下の人達が選出されている。
・公民代表(8名) 松本専一郎・館山周吉・福沢留蔵・岩田末松
福沢石五郎・梶原吉太郎・出戸仁太郎
田中福松
・学校長 (2校)工藤弘・大井勝郎
“諮問的機関であって教育委員会ということはできない”といわれる学務委員であり、職務や機能については不明である。ここで、その組織について屢々記したのは、少なくとも明治末から大正、昭和初期までは子供や父母の願いを教育行政に届けるという機能を果たしていたと思われるし、戦時下の勅命による全体主義の教育の中においても、学務委員は組織されていたということ自体に意義を感じる。戦後、教育の民主化、地方分権化、さらにはその自主的運営を図るため教育委員会制度の設置をみたが、これら戦中に学務委員を務められた人々の苦渋や反省がこの新しい制度に生かされたと思うからである。
(註1)学務委員は、戦後の昭和23年(1948)まで受継がれたが、これは法規上の存在であり、昭和19年6月1日の町村制改正に伴い廃止されたものと推察する。
(註2)尻岸内町史には「学務委員の組織規程は明治三十九年(一九〇六)が最初である」と記されているが、古武井小沿革誌、明治30年代に記した文書中に「学務委員、成田文次郎、明治三十四年四月から三十九年三月」の記録があるので、学務委員は年代は不明であるが明治39年以前から存在していたと推測する。