氏名 | 就任年月日満了年月日 | 職名 | 在任期間 | |
1 | 浜田 正義 | 昭和27.11. ~昭和30. 4. | 初代委員長 | 昭和27.11 ~ 30. 4. |
2 | 西山 元松 | 27.10. 5~ 43. 7.30 | 2代委員長 | 31. 7.31~ 43. 7.30 |
3 | 東 政男 | 27.10. 5~ 41. 7.31 | ||
4 | 福澤 亀悦 | 27.10. 5~ 34. 7.30 | ||
5 | 田中 富雄 | 27.10. 5~ 31. 7.30 | ||
6 | 三好 信一 | 27.11. 1~ 28. 3.31 | 初代教育長 | 27.11. 1~ 28. 3.31 |
7 | 館山 周吉 | 30. 5. ~ 31. 7. | 3代委員長 | 30. 5. ~ 31. 7. |
8 | 上田 定義 | 28. 8. 1~ 42. 6.28 | 2代教育長 | 28. 8. 1~ 42. 6.28 |
9 | 長田 喜一郎 | 32. 7.31~ 36. 7.30 | ||
10 | 斉藤 時雄 | 34. 7.31~ 38. 7.30 | ||
11 | 松永 誠三郎 | 36. 9.23~ 56.10.31 | 4代委員長 | 43. 7.31~ 55.10.31 |
12 | 斉藤 留治 | 38. 7.31~ 46. 4.30 | ||
13 | 竹内 正則 | 41. 8. 1~ 49. 7.31 | ||
14 | 上遠野 勝家 | 42. 6.28~ 55. 7.31 | 3代教育長 | 42. 6.28~ 55. 7.31 |
15 | 菅 弘 | 43. 8. 1~ 51.6.22 | ||
16 | 長田 亀一 | 46. 5. 8~ 62.7.30 | 5代委員長 | 55.11. 1~ 62.7.30 |
17 | 九村 正雄 | 49.10. 1~ 51.10.13 | ||
18 | 松本 輝一 | 51. 6.24~平成12.8.1 | ||
19 | 土谷 福良 | 昭和51.11.24~平成6.9.30 | ||
20 | 野呂 桂司 | 55. 8. 1~昭和56.6.5 | 4代教育長 | 55. 8. 1~ 56.6.5 |
21 | 相澤 二三男 | 56. 7.20~ 63.7.31 | 5代教育長 | 56. 7.20~ 63.7.31 |
22 | 長田 定治 | 56.11. 1~ 61.2.25 | ||
23 | 車 由雄 | 61. 3.17~平成4.4.8 | 6代委員長 | 昭和62. 8. 7~平成4.4.8 |
24 | 福沢 行雄 | 62. 7.31~ 6.11.22 | 7代委員長 | 平成 4. 6.26~ 6.11.22 |
25 | 山田 忠昭 | 63. 8. 1~ 6.7.10 | 6代教育長 | 昭和63. 8. 1~平成6.7.10 |
26 | 笹田 秋也 | 平成 4. 6.26~ 11.8.31 | 8代委員長 | 平成 7. 1.31~ 11.8.31 |
27 | 渡辺 英治 | 6. 8. 3~ 7.5.15 | 7代教育長 | 6. 8. 3~ 7.5.15 |
28 | 斉藤 正男 | 6.10. 1~ 16.11.30 | 9代委員長 | 11. 9. 1~ 16.11.30 |
29 | 芹田 幸典 | 7. 3.13~ 16.11.30 | ||
30 | 三好 暢博 | 7. 5.29~ 11.9.30 | 8代教育長 | 7. 5.29~ 11.9.30 |
31 | 瀧 一彦 | 11. 9.22~ 16.3.31 | ||
32 | 澤田 省三 | 11.10.21~ 14.6.5 | 9代教育長 | 11.10.21~ 14.6.5 |
33 | 松浦 三千秋 | 12. 8. 2~ 16.11.30 | ||
34 | 加藤 弘 | 15. 1.10~ 16.11.30 | 10代教育長 | 15. 1.10~ 16.11.30 |
35 | 横手 義信 | 16. 4. 1~ 16.11.30 |
歴代教育長
初 代 三好 信一 在任期間 昭和27年11月1日より28年3月31日まで。
初代教育長に選任された三好信一は、激務の助役と兼務しながら発足したばかりの教育委員会の組織づくり基盤づくりに奔走した。
三好は伝説の人“力持ち又右衛門”を先祖に、大正3年(1914)字恵山の生まれ、昭和8年尻岸内村役場入り、奉職後3年にして北海道立自治講習所での研修を命じられ修了、その後、教育係・兵事・戸籍の主任を務め、昭和13年から1年間北海道庁に派遣され総務部会計課で貴重な経験をする。帰庁後は財務兼税務主任として財政に携わり、18年には収入役代理者、戦後、村が最も苦境にあった戦後の21年、33歳の若さで助役に就任する。教育改革の柱としての教育委員会の基礎づくりに助役兼務として敢えて教育長に起用したのは、三好の経歴と、そのカリスマ性に期待したからであろう。三好はその期待に応え2代目上田に職を引き継いだ。
第2代 上田 定義 在任期間 昭和28年8月1日より42年6月28日まで。
2代目教育長に就任したのは、昭和8年三好と同期に尻岸内村役場に入った上田定義。上田は明治42年(1909)字大澗の生まれ、神職の家柄で大正15年難関の庁立函館中学校に入学するが病気のため中退、請われて役場入りする。書記補としての採用であり庶務・教育・財務・税務などの経験を積み昭和13年には書記に昇任、ところが翌14年には十勝支庁中川郡西足寄村役場書記に就任、15年には収入役代理を務め19年には同十勝郡大津村の助役に就任する。
戦後の26年、上田は帰村し尻岸内漁協組合長理事に就任するが、28年三好の後任として教育長に就任する。以後14年間にわたり、最も予算の乏しい時代、校舎の建築・施設設備の充実、グラウンド敷地の確保、学校給食センターの建設などに、経験を生かし道教育庁を相手に手腕を発揮する。
第3代 上遠野勝家 在任期間 昭和42年6月28日より55年7月31日まで。
3代目教育長を務めた上遠野は大正5年(1916)の生まれ、落部高等小学校卒業後、庁立函館工業学校に進学するが中退、家業に従事、昭和12年から尻岸内漁業組合・古武井漁業組合などに務め、役場に入ったのは戦争も末期の昭和20年1月、29歳の時である。最初は兵事・戸籍係、戦後は軍人援護厚生勤労、厚生援護係長、振興、勤労、教育係長などを歴任、26年には総務課長兼財政係長の要職につき40年には、一般職のトップ総務部長(当時は部長制)に就く。
昭和42年には上田の後を継ぎ教育長を務め、4期めの任期を残し惜しまれての死去。13年余りの在任中、漁業組合の経験を生かした恵山高等学校への積極的な支援、中学生の視野を広げるための東京への修学旅行、部活動の奨励、校舎の新改築等、上遠野は常に地域に根差した教育をめざした。又、北教組との対立で管内によく知られ、行政の筋を通す一方、対立した教職員から人情教育長として慕われもした。
第4代 野呂 桂司 在任期間 昭和55年8月1日より56年6月5日まで。
第4代野呂の教育長就任は上遠野教育長の突然の死去による人事である。
野呂は昭和5年の生まれ、20年の3月、戦争も末期の時期、尻岸内国民学校高等科を卒業、尻岸内漁業協同組合に就職、6年間務め、昭和26年尻岸内村役場事務吏員に採用される。3年3月には道立自治講習所を修了、以降、庶務・観光・消防を経験、39年町立国保病院事務長、4年庶務課長、41年には経済部長、50年には収入役に就任、2期目途中での教育長就任であった。
その経歴、人柄から教育行政に対する期待は大であったが、就任1年目、今度は三好町長の突然の死去により、野呂は嘱望され町長選出馬のためやむなくの辞任であった。
第5代 相澤二三男 在任期間 昭和56年7月20日より63年7月31日まで。
三好町長の死去、野呂の町長就任の後を引き継いだのが、尻岸内漁業協同組合の参事を務めていた相澤二三男である。相澤は鹿部村の出身、大正12年の生まれ、鹿部尋常高等小学校を卒業、昭和13年4月鹿部村給仕を振出しに、15年には書記補、17年道立自治講習所を修了、役場に戻ったが19年現役として兵役に就く、終戦により復員鹿部村役場に復職するが、翌21年4月公職追放を受ける。戦時中陸軍憲兵学校で学んだ事が理由といわれる。その年鹿部漁業会書記に採用される。昭和38年請われて尻岸内漁業協同組合参事に就任、以降、尻岸内の住民となる。 相澤が教育長を務めた56年から63年は、60年尻岸内から念願の“恵山”に町名を変更、町民は清新な気分となっていた時期で、経済の盛況に支えられ教育予算も大幅増、東光中・古武井小・尻岸内小中などモダンな新校舎が建ち環境の整備も進み、恵山小のJRCなどの実践活動、古武井小の生徒指導など教育研究も盛んな時期であった。又、恵山高校が全日制普通科になったのも61年である。
第6代 山田 忠昭 在任期間 昭和63年8月1日から平成6年7月10日まで。
6代目教育長山田は昭和14年1月古武井の生まれ、昭和32年函館東高等学校を卒業、本人は進学し高校の体育教師になるのが希望だったというが、5月、尻岸内村事務吏員に、厚生労働係・民生課厚生職業・国民年金係、教育委員会学校教育係長、46年議会事務局長、50年税務課長、53年水産課長、56年国保病院事務長を歴任、62年には収入役に就任、翌、63年、相澤の後を継ぎ第6代目教育長に就任する。この期間、相澤教育長当時に敷かれた実践研究が花を開いた時期である。古武井小の生徒指導導究が評価され発達科学教育研究奨励賞の受賞、恵山高校渡島教育実践表彰受賞、日浦小全国児童才能開発コンテスト科学部門受賞、尻岸内中を会場に渡島学校保健研究大会の開催、東光中を会場に進
路指導教育研究大会、尻岸内小の渡島教育局指定研究第1次・第2次公開研究会、平成3年には、これまで平野部の上磯・七飯・大野か北渡島の森・八雲が持ち回りで開催していた『渡島教育研究大会』を椴法華と共催で開催、およそ1,000人の先生方が町内各校で公開された授業を参観、恵山町の実践研究が高く評価される。
平成4年には第1次恵山町教育推進計画を策定、また“教育の実をあげるため教職員の和を大切に”と、町内の4地区持ち回りで、教職員(学校と教育委員会)が一堂に会しスポーツとレクリエーションの交流を実施したのもこの時期であった。
第7代 渡辺 英治 在任期間 平成6年8月3日から7年5月15日まで。
7代目教育長渡辺は昭和14年字日ノ浜の生まれ、昭和30年尻岸内村事務吏員に採用され、39年住民課国民年金・衛生係長、42年畜産係長、46年32歳の若さで農林商工課長に抜擢。以降企画・税務・建設の課長、国保病院事務長、議会事務局長など行政職としての重要ポストを全て歴任、平成3年には収入役に就任。平成6年山田の後を継ぎ教育長に就任、その経歴と人柄から、期待されながら僅か7か月余りで辞任する。短い期間であったが、この間、尻岸内中学校人権作文コンテスト最優秀他多数入賞・全国学校賞受賞、同校秋田君砲丸投で中体連全国大会出場、東光中ハンドボール全道大会第3位、吹奏楽全道大会銀賞、函館地区吹奏楽コンクールで金賞受賞等、文化面、スポーツ面で恵山の生徒たちが輝いた時期でもあった。
第8代 三好 暢博 在任期間 平成7年5月29日から11年9月30日まで。
三好は昭和13年1月字恵山に生まれる。28年東光中学校第1回の卒業、函館東高等学校に進学後、東洋大学文学部を卒業、35年帰郷し尻岸内中学校に赴任、国語教師となる。37年上磯町立茂辺地中、41年函館市立松川中学校勤務の後、昭和49年北海道教育庁社会教育主事の任命を受け函館市教育委員会に派遣される。55年には函館市教育委員会社会教育主事に就任、59年故郷に戻り恵山町教委社会教育課長に就任、60年には「ふれあい高齢者大学」の開校、「青年団体連絡協議会」の発足、平成2年には「ふるさと民話」の発刊、同3年「ごっこまつり」の開催など社会教育の充実、特に文化での活動に力を尽くす。平成7年、三好は親子2代(初代教育長三好信一は実父)、第8代教育長に就任する。
三好の教育長時代については、尻岸内中の人権作文コンテスト奨励賞、全道文芸作品(詩の部)入賞、「少年の主張」渡島大会優秀賞・人権作文奨励賞・渡島中学校英語暗唱大会優秀賞・海の子作品展(習字の部)信漁連会長賞の受賞、東光中第1回道南壁新聞コンクールでの最優秀賞、以降、毎回連続入賞、尻岸内小太鼓クラブ合同演奏会、恵山小金管バンドの活躍、東光中吹奏楽部の渡島管内・全道での数々の受賞、また、尻岸内小中と日浦小合同で音楽鑑賞教室を開催するなど、教育長1期4年、文化活動の充実ぶりが際立っている。三好の教師時代の演劇部の指導、函館市演劇教育研究会での活動が、教育行政の中に生かされていたと推察する。
平成9年度の第2次恵山町教育推進計画策定・恵山賛歌制定も三好の時代である。2期目に意欲を持っていたが、体調を崩し惜しまれながら辞任する。
第9代 澤田 省三 在任期間 平成11年10月21日から14年6月5日まで。
9代目教育長に就任した澤田は昭和14年字豊浦の生まれ、30年尻岸内中学校を卒業、33年函館東高等学校を卒業、同年9月函館信用金庫に就職、49年、足掛け17年間務めた函館信金を退職、同年4月、請われて尻岸内町立国保病院庶務係長として勤務、55年病院事務次長、56年から59年までは企画・産業振興・税務の各課長、60年再び病院事務長に、63年税務課長、平成2年企画財政課長、3年から6年まで消防署長を務め、企画財政課長に再任、8年に教育委員会生涯学習課長、9年総務財政課長、そして平成11年10月21日三好の後を継ぎ9代目教育長に就任する。澤田の履歴を見ると金融機関に15年余り、役場に入り外局の病院経営・消防署長12年余り、町長部局のほとんどは財政・税務の担当課長を務めている。金融機関の経験も含め、財政の澤田と言わしめた所以であろう。
澤田が教育長に就任した当時は町予算が相当逼迫していた。そんな中で、澤田は学校、特に児童生徒に直接関わる予算については最優先とした。前出、恵山町教育の歩み(平成5年度~15年度)に記したが、当時、文化・スポーツ活動(部活動などの)管内・全道、全国規模の大会への参加、そして、毎年の入賞・受賞、これらの費用についても不自由させない、このような配慮は8年度の生涯学習課長を務め教育活動を把握し評価していたからと推察する。
澤田のもう1つの大きな仕事は、学校の統合であった。児童生徒数の推移・教育効果、予算などから学校統合は数年前からの懸案事項であった。しかし、学校の存在は地域の歴史や文化と深いかかわり、あるいは母校に対する愛着といった精神面が介在する。それは理屈では割り切れないものである。澤田はこれらの実情を十分把握し住民に、児童生徒数の推移と町財政の状況、併せて学校統合による教育効果を地域・PTA等諸機関へ幾度となく訴え続けたが、在任中は実らなかった。
第10代 加藤 弘 在任期間 平成15年1月10日から16年11月30日まで。
10代目加藤弘は恵山町では初めての学校長経験の教育長である。
加藤は昭和11年の函館生まれ、函館商業高校を経て、昭和32年北海道学芸大学函館分校修了、最初の赴任校が日浦小学校であった。10年間勤務の後、函館市内の大森、高盛小に勤務、昭和60年鱒川小中学校教頭、62年尻岸内小学校に教頭として恵山町2度目の勤務となる。平成2年森町立尾白内小学校長、5年函館市立中島小学校長、ついで大森小学校長を務め、平成9年退職、その後函館文化スポーツ財団勤務のかたわら函館少年ラグビースクールの校長を務める。
14年恵山町教育委員会教育推進アドバイザーとして勤務、翌15年1月、第10代教育長に就任、加藤教育長への期待は懸案事項の“学校統合”にあった。
履歴にも記したとおり、加藤は新卒の日浦小での勤務、新進気鋭の教頭として尻岸内小の勤務、合わせて13年、恵山町で多く知己を得た地域の人々と親しんだ。校長としては郡部校から市内大規模校を経験し、さらに文化スポーツ財団で培った現場的発想等、学校教育はもとより、社会教育・管理職としての幅広く深い思慮のもと、加藤は父母と、教職員と、地域社会と徹底して話し合った。そして、町当局と議会と論議を重ねた。不安は解消され、諸々の問題は解決の目途が立った。そして、平成16年4月、町内の4小学校を統合し恵山町立えさん小学校を創立した。同年、尻岸内・東光両中学校統合の決定もみた。
平成16年11月30日恵山町教育委員会の幕引の日、加藤は教育長を退任する。