1、菊池重賢 壬申八月巡回御用神社取調『解題』

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 本史料は、明治5年7月開拓使が北海道神社改正取調を実施した際、直接この調査を担当した札幌神社権宮司兼開拓使11等出仕菊池重賢の巡回日記で、当時の各郡村々の戸数・人口をはじめ、神社沿革、祭祀神体、社殿形態、神仏混淆の有無、その他調査の内容が克明に記されている。
 明治元(1868)年3月、政府は「祭政一致之御制度」の回復を明示して神祇官の設置を定め、ついでこの月「神仏判然令」を布告して神仏混淆の整理を命じたが、これを契機として全国的に廃仏毀釈運動がひろがった。しかし、北海道の場合は松前の一部を除いては、箱館戦争の余波を受けて実施励行がおくれ、開拓使設置後ようやく整備段階に入り、明治5月7月調査の実施となったが、開拓使は調査の実施に先立ち、関係各郡に対して次の通達を発して調査の提出を命じている。
 「今般北海道神社御改正に付、管内神社一部産土の神祠は勿論、一村数社有レ之小祠、且合殿祭神及寺院境内の神祠に至り、前紙条目に照準し、進退の神職銘々詳細調書可二差出一、神職無レ之場合は其村役人にて取調方可二差出一候。近々神社仏体歟、社寺幾間、附属之内畑社林幾反幾畝、建物幾棟幾間幾尺、神門幾基、神器有無、神職僧侶奉仕以来幾代、又当代幾年前より守護、本社本寺の区別…以下欠文…」(本史料編第7「明治四年御達留」参照)
 本史料の菊池重賢巡回日記はおおむねこの形式によって書かれており、本日記によって当時の神社の実を知り、また当時の神社行政方針が如何なるものであったかを知るに足る好史料である。
 調査団一行は、7月19日小樽郡銭函村をふり出しに、日本海沿岸の各郡村々を調査し9月2日函館に到着、後、1か月滞在して調書の整理、函館支庁との打合わせ及び市中の社寺調査等を済ませ、同係として発令された岡本長行と同行(北海道総務部行政資料課所蔵「壬申五年札幌神社留」)9月28日函館を離れ、亀田郡、茅部郡を経て、以後太平洋沿岸の各郡村々を巡回して、12月7日、約5か月余りにわたる長期大調査を終えて帰札。曖昧像、混淆等を整理、神社の改廃、統合整理、神官設置等々見込みを立てて復命上申した。
 菊池はこのときの巡回調査結果を
 
 第1巻 小樽、高嶋、忍路、余市、古平、美国、積丹、古宇、磯谷、歌棄、寿都、瀬棚、太櫓、久遠、奥尻、以上15郡
 第2巻 上磯、亀田、茅部 以上 3郡
 第3巻 亀田、茅部、山越、虻田、有珠、室蘭、幌別、白老、勇払、千歳、以上10郡
 
に区分して日記にまとめているが、本史料編には、函館八幡宮所蔵の第2巻および第3巻を収録…(中略)…この時の調査には、後志国爾志郡・檜山郡および、渡島国津軽郡・福島郡の4郡は除かれているが、当時この4郡は青森県に属していたので対象外であった。したがって、第2巻の書き出しは上磯郡木古内村からはじまる。
 著者の菊池重賢について、菊池は天保4(1833)年9月19日京都下加茂、玉田家の四男として生まれ、嘉永6(1853)年3月箱館八幡宮神官菊池家々督を相続した。札幌神社創建に参画し、明治4年同社権禰宜を命ぜられ、翌5年権宮司、さらに6年宮司に累進、政治的手腕にすぐれ、政教一致、教化運動に活躍し、北海道における神社制度確立に大きな貢献を残した。北海道大学図書館北方資料室には「菊池重賢文書」として、明治5年以降の道内神社調査を記録した巡回日記8冊をはじめ多くの書冊が所蔵されている。…以下省略