[神道国教策以後の郷土の神社]

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 明治政府の神道国教策により郷土の4神社はどのように変わったのか、菊池重賢の『壬申八月巡回御用神社調』(明治政府・開拓使による神社調べ)以降の郷土の神社の実態については、明治12年6月調の文書、『渡島国亀田・上磯・茅部三郡神社明細帳』(函館支庁・戸籍係)が存在する。以下、その全文を記す。
 
 開拓使函館支庁管下渡島国亀田郡尻岸内村字澗五三番地の一
                      郷社  八 幡 神 社
 一、祭   神 誉田別命
 一、由   緒 創立天和二年建立后、享保、明和、文政度ニ修繕、文久二年三月修営、明治九年神社御改正ニテ郷社に列す。
 一、社   殿 本殿、間口壱間奥行壱間
        拝殿、間口三間奥行六間
 一、境   内 九拾四坪 民有地第二種 名受人 社掌大熊廣義
 一、境内神社 壱社 稲荷神社
        祭神 倉稲魂命
        由緒 創立宝暦三年三月建立 享保九年再建
           弘化二年又修繕。
        建物 本殿、方三尺
           拝殿、間口二間奥行二間三尺
 一、氏   子 二百四拾九戸
 一、管轄庁距離 九里三十壹町                 以上
 
 開拓使函館支庁管下渡島国亀田郡尻岸内村支日浦五九番地
                      無格社 稲 荷 神 社
 一、祭   神 倉稲魂命
 一、由   緒 不詳 宝暦三年三月再建ス。
 一、社   殿 本殿、方三尺 拝殿、間口二間奥行二間三尺
 一、境   内 九拾八坪 民有地第一種 同村、米澤清十郎外四拾三名共有地
 一、信   徒 二十七戸
 一、管轄庁距離 九里余                    以上
 
 開拓使函館支庁管下渡島国亀田郡尻岸内村支古武井四三番地
                      無格社 海 積 神 社
 一、祭   神 上津海須見・中津綿海・底津海須見三柱神
 一、由   緒 宝暦三年四月創立。爾来村中帰依ノモノ祭祀ス。
 一、社   殿 本殿、方三尺 拝殿、間口二間奥行二間半
 一、境   内 百三拾三坪 民有地第一種 同村福澤勝四郎外四拾七名共有地
 一、信   徒 五十二戸
 一、管轄庁距離 九里余                    以上
 
 開拓使函館支庁管下渡島国亀田郡尻岸内村支根田内三三番地
                      無格社 厳 島 神 社
 一、祭   神 市杵島姫命
 一、由   緒 宝暦元年九月創立。爾来村中ニテ祭祀ス。
 一、社   殿 本殿、方三尺 拝殿、方二間
 一、境   内 六拾九坪 民有地第一種 同村大坂力松外七拾七名共有地
 一、信   徒 九十四戸
 一、管轄庁距離 九里余                    以上
 
 以上、この文書(『渡島国亀田・上磯・茅部三郡神社明細帳』函館支庁・戸籍係)の祭神を見る限りでは、菊池重賢の『壬申八月巡回御用神社調』での報告どおり、八幡神社の立像・境内の稲荷神社以外の、木、石像等、祀られている複数の神体については、すべて廃棄・改祭され、一神社一祭神(海積神社は上津・中津・底津の三柱神だが海神の一祭神とみる)とされている。住民の手による“廃仏毀釈”という行動は伝聞にも記録にもないが、郷土もまた、明治政府の神道国教化の波をかぶったことは事実である。