〔浜町砂丘遺跡〕

63 ~ 67 / 1354ページ
 埋蔵文化財の調査カードには浜町砂丘遺跡とある。昭和二十六年十一月の調査では浜町の遺跡は砂丘にある遺跡しか知られていなかった。最初に発見された遺跡名が浜町遺跡でなく浜町砂丘遺跡となったのは、昭和三十七年である。椴法華の先史というと椴法華式尖底土器があまりにも有名であった。この尖底土器が発見された場所として国道二七八号線に近い浜町一七三番地で、現在浜町一七一番地がある。この土地は近江商人であった旧今岡連蔵氏の所有地であった。この現地調査には教育委員会の田中寛教育長、川口博社会教育主事などが協力された。この昭和五十五年八月の村内の遺跡調査には是非尖底土器の遺跡所在地を確認する必要があったからである。
 「特別母と子の家」のあたりが、元地山で小高くなっていたという。湿地埋立てで地山がなくなっていたが、海岸に近く地山には砂丘と連続する海砂の堆積もあり、この地域と吉兵衛川沿いの丘陵も調査したが、国道の東側にある吉兵衛川の南で恵山式土器の甕形土器の破片や石斧を採集できたのみで、浜町一七三番地付近では羽状縄文の破片をみつけたにすぎなかった。この失われた小高い地点が浜町遺跡になっていたのである。
 この調査で、あまり広い面積ではないが恵山式の遺跡を新しく発見した。遺跡名は別に考えられると思う。羽状縄文の破片は、整地したときに出土したと思われ、これがどのような地点であったかわからないが、縄文中期と考えられる。これも湿地の埋立てのとき遺物の包含層がなくなってしまった。
 埋蔵文化財調査カードに記入されている椴法華式尖底土器の出土地点は浜町一七三番地の砂丘堆積のあった小山だったのでなかろうか。田中教育長などによる聞き込み調査ではかなり確実性がある。教育委員会に保存されていた「下海岸の遺跡 椴法華村」というガリ版刷りのものがある。昭和三十七年三月十七日に椴法華村教育委員会から道教育庁に提出したもので、これに浜町遺跡と浜町砂丘遺跡が分けられ、浜町遺跡には今岡連蔵所有地で小高きところから三個の完全な土器が出土し、その二個が同村小学校に保存されていたが、空襲で破壊され、一個が函館博物館にあると書かれていた。残念にも椴法華式尖底土器の浜町遺跡は見ることができなくなった。
 椴法華式尖底土器を中心に考えたとき、浜町遺跡があり、浜町砂丘遺跡とは区分させたのである。
 砂丘がどの時期に堆積が開始され、砂丘形成がなされたのか。地質調査にゆだねられなければならないが、浜町遺跡を含めて砂丘形成の前に赤土のローム層堆積があった。これは吉兵衛川と国道開さくの地層断面にみえ、砂丘堆積の開始が沖積世の初めであったとすると恵山町尻岸内出土の尖底土器と同様に砂丘の下部砂層に縄文早期末から縄文前期初頭の文化層があり、砂層堆積のため完全に近い土器が埋蔵されていたとしても不思議ではない。粘土質と違って発掘のとき、砂層であれば器形をそこねることもなく発見される可能性がある。
 浜町砂丘遺跡は、浜町九二番地に所在する遺跡である。浜には旧道が北の銚子に通っているが、この旧道には家屋が建ち並んでいる。海浜から道路をへだてて四十メートルほどに砂丘発達がある。この砂丘の西側は低地であるが矢尻川が浸蝕してできたもので、砂丘上の海岸に近い東側が一帯遺跡である。昭和二十六年にも砂丘上の遺跡に家屋が建っていたが、この頃は、砂丘上のいたるところに土器が密集して散在するのがみられた。かつて砂丘が畑などに使用されて表土の下にあった生活面の遺物包含層が耕作で攪乱し、遺物が地表に散在したのであるが、この層から深さ五十糎までの黒褐色土層が遺物の包含層であった。その下部になると褐色の砂層となり遺物を含んでいない。昭和五十五年は、地表に貝殼がわずかに散在している東側の傾斜面を掘って地層を調べると地表から四十五センチメートルの深さまでは土器片、獣骨、貝殼に混在して陶器片やガラス片を含む攪乱層があるが、その下は攪乱のない堆積層で黒色の砂層から土器が出土し、魚骨や獣骨を含む貝層、黒褐色の砂層と二十八センチメートルの深さに遺物を含む地層があり、砂鉄を含む二十一センチメートルの下は灰褐色砂層となって遺物を含んでいない。こうして地層からみると貝層を含む古代生活の文化層が地表下二十センチメートルから四十五センチメートルの下に五〇センチメートルほどの厚さで埋蔵されていることがはっきりしていた。この五十センチメートル近い文化層は、少なくとも二つの文化層があったと考える。
 この遺跡を発見した動機は、友田ヤエ宅に彦一郎氏が収集した土器や石器があった。カネマス上杉増太郎氏附近から出土した石冠と円筒上層式土器、矢尻川から出土した無文の土器、矢尻川下流の川口与吉氏近くから出土した完形の甕形土器に石鏃が入っていたという石鏃や土器があった。川口与吉氏の所は浜町砂丘遺跡の東側で砂丘を削って家が建てられていたが、裏側にあたる砂丘の切り崩した畑は土器が最も多く散在していた。砂丘の幅は四、五十メートルで南に行くと広がっているが、砂丘の中にどれほどの遺跡が埋蔵されているかわからない。
 この砂丘遺跡から最も多く出土しているのは縄文のあと続縄文時代の恵山式文化の遺物である。採集できた資料に縄文晩期の終末期と考えられるものなどもある。この土器形成は、これまでにあまり知られていないものである。器形は甕形土器、鉢形土器、台付土器である。器形をみると縄文の終末期か続縄文の初期のもので、台付土器の器台が低い。甕の口縁から胴部にかけて肩部の張り出しは続縄文の形態を持っている。口縁部には小さな対となす小突起がある土器は、小突起下部に半月形の沈線で平行沈線文に接続させている。口縁部の装飾文は平行沈線文で、小さな山形突起のあるものは、上部沈線が突起部で離れ、波状山形にするなど変化をもたせる。平行沈線下部では、平行する沈線と沈線の間を縦の沈線で細かに刻みつけている。施文順序は無文の土器面を磨いてから横の平行沈線文をつけ、縦の刻目を入れる。内面にはヘラの横ナデ調整がある。縄文は口縁部が横位、体部が斜位の縄文と口縁に横位と斜位の縄文を施しているが、これらには恵山式のように縄文の上をナデ磨きすることはない。
 ごく普通にみられる恵山式の土器は、甕形土器が多く、鉢形土器などがある。これらの縄文の条が縦方向に走り、縄文を施したあとにナデ磨きしてから口縁部や体部の上方に平行する沈線文をつける。単純な平行沈線文であるが、沈線文の下部などに波状の沈線文を加えて装飾する。浜町砂丘遺跡の恵山式土器は正式に発掘すると層位関係が明確なだけに細かな編年関係が明らかになると思われる。恵山式に特徴的な石器では、魚形石器といって、凝似漁法であるテンテン釣りに用いたと考える魚の形をした石錘や片刃磨製石斧が出土している。
 貝層から検出した、貝殼、魚骨、獣骨を早稲田大学の金子浩昌氏から同定してもらったところ、次のような結果が出ている。
 貝は、試掘地点はわずかなためか、細かにくだけた貝殼が多かったが、チヂミエゾボラ、ビノスガイであった。エゾイガイは残片で定めかねるが、貝殼からみた海洋は寒冷であったといえる。
 魚は、イシナギ、アイナメ、タラ、フグ、ヒラメ、ソイ、マグロで、ヒラメは大きく、一メートル近くあったといわれる。その他イルカ、クジラの骨もあった。
 海獣は、アシカの雄、オットセイの雌とアシカ類、陸獣ではシカの骨があった。この海岸には明治十一年にセイウチの雄が南下して捕えられたことがある。アシカやオットセイの骨が検出されたが、貝塚にはこうした捕獲された海獣である。室蘭などの貝塚を発掘した結果によると、海獣の種類と個体数によって海獣と当時の人達の関係がわかっている。ある貝塚ではオットセイの幼獣と雌が多く、ある貝塚からはオットセイの雄しか発見されないことがある。
 普通の貝塚から出土するのは陸獣の骨で、エゾシカが最も多く、キツネや白鳥などの鳥類とか魚が検出される。浜町砂丘遺跡では、陸にすむ動物よりも海の動物がほとんどであり、タラ、ヒラメ、マグロの大形魚類やイルカ、クジラ、オットセイがいたことは、いかに水産資源にめぐまれていたかがわかる。