明治十二年

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・二月 渡島地方に大雪が降り、その後低温となったため山野が凍結し、餌を得ることの出来なかった鹿が多数死ぬ。
 これ以前椴法華尻岸内の地域には多数の鹿がおり、椴法華では番屋川の上流より追い落したり、海へ追い出した鹿を捕獲したりしたことがあったと云われている。また下海岸地方では鉄砲により鹿猟が行われ、主として地元の人間や白老方面から雇ったアイヌ人がこれを行い、毛皮は東京方面へ出荷されていた。
 このように多数捕獲されていた鹿も十二年二月の大量死以後は、なかなか捕獲することがむずかしくなったらしく、毛皮は全く移出されなくなった。しかし全然存在しなかったわけではなく、たまには捕獲されていたようである。明治二十三年の『函館新聞』によれば根田内産の鹿一頭分の肉が四円三十銭で販売されていることが記されている。
・七月二十三日 開拓使の布達により大小区制が廃止され、変わって郡区町村制が施行されることになった。(大小区制は明治十二年十二月三十一日まで実施される)
・八月 村民の代表より椴法華学校設立及び教員派出願いが開拓使函館支庁に提出され、十一月七日付で学校設立及び教員派出が許可される。この間九月、村民有志は役人及び村民百八人より総額百二十二円の寄附を受け学校設立資金として備え、十一月七日許可を受けるや直ちに椴法華学校の新築に取り掛った。(新設校舎が完成したのは翌十三年三月でその建坪は十三坪・一教室であった。)
・九月一日から函館でコレラ流行し、十月二十二日までに函館市中と亀田郡で百二名が発病し八十四名が死亡する。云い伝えによれば函館の住民の中には、コレラを逃れ下海岸方面に多数移動した者があったと云われている。(古老の話)
・この頃の椴法華村の鰮漁。
 椴法華村の鰮漁は夏漁(夏土用前後開始、盛漁期は八月中旬より下旬)と秋漁(十一月より冬至後およそ十日間)の二期に分けられていたが、夏漁の漁獲高が多く漁獲物の大部分が粕に製造され、本州向け農業肥料として移出されていた。また前年の農業景気が良ければ粕の値が上り、悪ければ値が下がるような有様であり、更に函館の海産商などより仕込みを受ける漁民が多いため、実際に漁民が手にする利益は割り合いに少なかったようである。
・十一月十九日 椴法華村において古宇郡赤石村からの鰮出稼者一名が焼死する。この頃すでに古宇郡から椴法華村まではるばる鰮漁夫が来村して来ていることが知られる。またこの時事件を報告する上申書が、開拓使長官黒田清隆より右大臣岩倉具視のもとへ提出されていたことが資料により知られる。
・十一月二十八日 午後一時椴法華村より鰤・昆布を積み込み、函館へ向け出航の日本型船旭日丸四名乗組は、強風のため恵山沖で漂流し三菱郵便船玄龍丸に救助される。(船体放棄)
・十二月二十五日 椴法華村戸長配置。
・十二月二十八日 午後二時、元椴法華(現在の元村)において強風激浪のため、津軽郡油川村の松栄丸十六石五斗積、椴法華産の塩切鰤・鰮粕・昆布その他を積み破船する。
 この当時定期的に椴法華村へ来航する船便が無いため、椴法華村から海産物を買入れた函館の海産商達は、函館や津軽の日本型船により海産物の輸送をしていたが、明治十二年の例やあとに記す二・三の例からも知られるように、冬期の航海が非常に危険であり折角購入した海産物の一瞬にして失われることもあったことがわかる。
・この年、『海ゆかば』の軍歌、礼式曲となる。また林広守『君が代』を作曲する。