明治十五年

107 ~ 109 / 1354ページ
・春 鰊漁場不漁、出稼者の収入少なし。
・二月八日 太政官布告八号により開拓使が廃され、函館・札幌・根室の三県が置かれる。
・二月八日 函館県開庁され初代県令に以前開拓使大書官であった時任為基が任ぜられる。
 従来の開拓使では政府の各省と対等の権限を有していたが、三県は本州の諸県と同じような権限が弱く、普通行政面の政務が中心となり、それ以外の産業・経済などの面では、中央官庁の指示監督をあおがなければならなくなった。
・七月 恵山温泉、函館新聞で紹介される。(明治十五年七月十三日の記事より要約)
 
     恵山温泉場
   亀田郡椴法華村を距る一里半恵山噴火口と近接せり、温度は百十八度。
  炭酸ガス多量・硫酸バッタアス・硫酸マグネシウム少量・塩化バリウム少量・塩化ソシウム少量
  便秘・慢性リウマチス・痛風・神経痛・子宮能病等に効あり
 
・この年秋 下海岸一帯鰮大漁となる。
・十一月十三日 北海道幌内鉄道、幌内-札幌間開通
・秋 輸出用昆布に粗製品多く、函館県昆布製造の改善を命ずる。この時の様子を明治十五年十一月二十二日付の『函館新聞』は次のように報じている。
 
   昆布改良(前号の続・大阪商人の上申書)
   本年六月十九日附ヲ以テ函館縣管内ニ於テ産出スル處ノ昆布刈取方及ビ干乾方方法等ノ義ニ付該縣下濱持仕入人ヘ之カ改良法御命示ノ義該縣廳に對スル請願書ヲ作リ之ヲ御廳ニ於テ御商議被下度旨上願仕候處御採用ノ上御照會相成タルニ拙商共於テ請願スル所ノ悪昆布ハ該地何レノケ所ヨリ輸出スルモノナルヤ之ガ指名方該廳ヨリ御照會有之タル趣キヲ以テ則詳細ニ具上可仕旨御下命相成奉畏候然ルニ拙商共於テ従前購求スル所ノ昆布ハ該縣管下昆布問屋ヨリ運致スル物品ヲ購求致候ニ付其悪品ハ何處ノ昆布ナルヤ量リ知ル能ハザレドモ正ニ函館縣管内ヨリ産出スル昆布テ元揃昆布ト号ケ其内黒口元揃ハ最モ悪品ニ有之白口元揃ノ内ニテハ尾札部・熊ノ類干乾不十分ナルニ良味ヲ失スルモノ多分有之ば、右之次第ニ付悉ク何所ノ産出ニシテ何其ノ刈取セシモノナルヤ不明瞭ニ有之は、故右種類ノ産出地方ハ該縣ニ於テ直ニ明白ノ事ト奉存候間右種類産出地方該営業人ニハ凡テ改良法ノ御諭示被成下候様御回報被成下度而シテ将来不良品ノ輸致ヲ止メ倍々改良品ヲ送致ナサシムルニハ本件一束ノ昆布毎ニ何所何誰ノ製品ナル事ヲ木札又ハ竹札等ニテ名刺ヲ作リ之ヲ指木トナシ輸出方御下命相成候得バ該營業人於テハ各々競争自己ノ製品ヲシテ善良ナラシムル事ニ勉強シ自然悪品ヲ輸出スル事ヲ恥ヂ商賣其潤益ヲ占メシ事ヲ希望スルハ必然ナリト思考仕候間此御回答ニ添御照會被成下度此段併テ上申仕置候也
      大阪府南区松屋平民昆布商取締
  明治十五年八月十一日   稲本平兵衛外四名
   大阪府知事建野郷三殿
 
・明治十五年頃の出稼
 後志地方の鰊漁は三月、四月が盛漁期であり、下海岸地方の鰮漁は夏漁(七月初めより九月まで)秋漁(十一月から十二月二十日頃まで)と二期に分かれており、この他に鱈漁は十二月より三月までが漁期であった。
 このような条件の中で、春の鰊漁の時期になれば下海岸・陰海岸の人々の中には鰊の千石場所である後志地方の古宇・歌棄・磯谷方面に出稼に行く者があり、逆に鰮や鱈の漁期になれば後志方面より下海岸地方に出稼に来る風習があった。
 このようなことが行われた理由は、鰊と鰮の漁法・漁具・加工方法が類似しており、しかも漁期が互いに重なることがなかったからである。更に当時北海道では他産業があまり発達しておらず、少しでも多くの収入を得ようとすれば、なれた漁業出稼が良かったからでもある。
 この他に鰮漁の時期には少数ではあったが、本州からの出稼者も来村していた。大部分は漁業経験者であったが、農閉期にやって来た農民の中には、海は全然だめ、『おかまわり』専門の『めしたき』・『かまたき』・雑用などが主なる仕事という人達もあった。