・四月二十一日 押野常松、恵山鉱山に鉱業権を設定し硫黄採掘を開始し、大正十二年市価低落により休業する。(この間、押野アカ・押野弘喜と所有名義が移譲される)
・六月 前年からの不漁続きで渡島地方漁民の生活困難となり、当時の新聞に「渡島漁民の惨況・凶漁続き民力の疲弊」と記されるような有様となる。
こうした情勢を受け、例年時期になれば来村する入稼者の数が減少し、大不景気の大正二年には及ばなかったが、逆に本村より他地域への出稼者が増加する。
次に入稼者の減少した理由について考えてみると次のようなことが推定される。
大正二年の凶作により多数の入稼者が有ったが、この年は不漁で収入が少なく大正三年十一月欧州大戦の影響により農産物の価格上昇があり、更にこの年は各種漁業が不振のため帰郷の旅費さえ手にすることが出来ないような有様であったこと、大正四年に入り軍需品の注文が殺到し、都市で労働者を必要としたことなどが原因として考えられる。またこのように椴法華村で不漁が続いていたことは、村民の他地域への出稼増加の原因となったものと推定される。
[表]
・七月七日 恵山電気経営許可を出願する。
・八月十八日 大阪で第一回全国中学校優勝野球大会が開催される。(現在の全国高校野球甲子園大会の前身)
・九月二十一日 椴法華八幡神社、幣帛料供進指定神社となる。
・この秋、青豌豆・菜豆を椴法華村より移出する。前年に引き続き青豌豆、菜豆の値段が良いため、作付面積がふやされ増収が図られていた。またこの年あたりから移出用作物として大根も作られるようになる。
・十一月十日 京都紫宸殿において大正天皇の即位式が挙行される。椴法華村では不景気の最中ではあったが、小学校において盛大に奉祝会が開催される。また十二月初旬東京で開催された大礼観兵式及び観艦式に在郷軍人分会長葛西教之助と旗手三ッ石丑太郎が代表として参加する。
・十二月三日 椴法華鰮大漁
当時の新聞はこの時の様子を次のように報じている。
大正四年十二月四日 函館毎日新聞
○椴法華鰮大漁 昨夜二千五百石
本年亀田郡に於ける鰮漁豫想の如き收獲を見ず一般に悲観され居りしが是れ全く漁期の例年より遅れ居りし爲にして今日より考ふれば餘り悲観すべきにあらざるが如し既報の如く三十日夜には汐首附近にて五百石收獲あり同日迄は汐首以東の沿岸鰮の群来を見ずと噂されしが其翌二日の夜に至り大漁も大漁一挙に二千五百石を收獲したりとの電報同戸長役場より支廳に到達せり、此の趨勢(すうせい)より察すれば潮流の変化にて漁期稍々遅れたれとも鮪の遊〓し居るを見れば鰮の群来も想像さるべく唯時化續きの為め空しく基の魚群を逸し去るが如き憾(うらみ)なきを得ず併し本年は魚粕の價格上ぼり居れば收獲高に於て多少減ずるとも價格に於ては、一昨年以来の増收を見るならんと豫測さる
大正四年十二月四日 函館毎日新聞
○椴法華鰮大漁
尻岸内も好模様
下海岸の鰮漁は既報の如く本月一日より戸井・汐首・古川尻・石崎附近に於て稍や良好なりしもその漁獲高は初漁来「各村を通じて二千四五百石」に過ぎざりし為め悲観されたる折柄今朝に至り椴法華より前夜来沖合好模様「今朝迄二千五六百石收獲」附近一帯有望なりとの入電あり又尻岸内よりも好模様ありとの入電ありたり。
・十二月の経済状況
日本全体では大正四年の上半期こそ不況であったが、下半期に至り欧州大戦の影響により輸出好況となり、好景気に向かいつつあった。我が椴法華村も、この年頗る不景気であったが、十一月末から烏賊十二月初旬から鰮が好漁となり、なんとか家計を黒字で越えられそうな状況であった。また函館管内の漁業経済もほぼ椴法華と同様であった。当時の新聞はこのことについて次のように記している。
大正四年十二月五日 函館毎日新開
(要約)
函館管内漁況
一般に不況なるが如く漁村は頗る不景気なりという此の不景気も一昨年及昨年の好漁に比較したる観察なると漁村の通弊(つうへい)として、好漁の時は濫費(らんぴ)する傾向あるを以って其の餘弊を受けて今年は不景気なれども鰮及烏賊は大に悲観されしに拘らず昨今稍々收獲を見るに至りたれば今後大に節約を勵(れい)行せば大なる疲憊(ひはい)を免かれ得べし
・この年、森鷗外「山椒太夫」・芥川竜之助「羅生門」が世に出される。
・この年、「乾杯の唄」・「恋はやさし」・「ゴンドラの唄」などが流行する。
大正初期の島泊