大正十三年

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・一月 椴法華村浜中に天然痘患者三名発生。
 伝染病隔離病舎が必要となるが、旧来の隔離病舎は老朽化のため使用出来ず、やむなく村内の病院で間に合わせる。このためにわかに隔離病舎の建築が決定され、三月三十日相八十五番地に柾葺木造平屋十五坪が新築される。なお従来使用されていた隔離病舎は、明治三十七年六月字冷水番外地に仮隔離病舎として設置され、(収用人員二名)ジフテリア・腸チフス・赤痢等の病舎として利用されていたものである。
 この仮病舎は大正十年頃には老朽のため使用に耐えなくなったが、その後大きな伝染病も発生しなかったためそのままにしておかれ、大正十三年の天然痘患者が発生し別に隔離病舎が新設されることになったものである。
・七月三日 戸井村周辺、津軽要塞地帯に編入される。
 戸井村・尻岸内村は軍事上の要地として、津軽要塞地帯の一部に編入され、写真撮影・地図所持・海岸線建設工事・魚貝草類の採取等こまかな部分に至るまで、津軽要塞指令部の許可が必要となり、これらの地域に対する外国人の立入が禁止される。この時椴法華村・恵山岬付近では、直接要塞地帯の指定は受けていなかったが、戸井要塞地帯に準ずる取扱いを受け写真撮影には許可が必要となり、部分的には一般住民の立入禁止地域も定められていた。古老の語るところによれば、これらの地域で怪しい行動をとる者や、怪しい人物を見たら直ちに駐在所・役場に連絡するように、軍部や役場から命ぜられていたと云われている。
 戸井周辺が津軽要塞地帯に編入される二年前の大正十一年九月の新聞によれば、津軽海峡の基本防備線について次のように記されている。
 
・津軽海峡の防衛
  大正十一年九月二十日 函館新聞
    津軽海峡防備
        恵山岬は一線
   最近に至り津軽海峡に基本防備線を新設する計畫がある事が傳へられた基本防備線の位置に就て仄聞(そくもん)する處に依れば恵山岬の付近と謂ふのが確説らしいこの基本防備線計畫の事が早くも外国人等の耳に入る處となり去月中に英米人で恵山方面に旅行を試み該(かい)方面地形の實際調踏査を為し或は之を寫真に収めたりしたのがあった。重大なる意味を含んだ基々外人等の行動に對しては函館憲兵隊當局も随分神経を悩めたとの事であるが恵山岬方面には別に要塞地帯法が布かれてゐないのであるから此奴臭いと睨んでも何んとも手の下しようがない、拱手(きょうしゅ)傍観し長蛇を逸したと謂ふ事である。津軽海峡の基本防備計畫の風説と怪外人の出没とは神経を過敏にさせる謂ではないか、何等か其處に一脈の關連がある様に観られる軍事當局の気苦労も想察に餘りあるが愈(いよいよ)恵山方面に國防設備が施されると其區域か第一線となり函館要塞が第二線となるらしいとは、當地軍衛當局の談である。
・底曳網漁に対する漁民の不満
 大正九年九月、「機船底曳網漁業取締規則」が制定されたにもかかわらず、大正十二・三年機船底曳網漁船が下海岸・陰海岸の沿岸近くまで横行したため、古武井椴法華尾札部等の村々では鱈延縄漁業が年々不振となり。(この年は豊漁に恵まれた)流網の一部にも被害が及んだことから、沿岸漁民の不満はこの年あたりから次第に高まりつつあった。
・この年、鱈豊漁、鰮もまた大漁、両者の値段もよかったため高収入となり、村の景気良好。この年の椴法華村の一戸の平均収入は二千百三十七円となる。(大不景気の大正十一年には一戸の平均収入は五百八十七円であった。)
・この年、函館で烏賊一尾十銭。
・この年、「からたちの花」・「ストトン節」・「籠の鳥」などの歌が流行する。