慶長年間(一五九六-一六一五)亀田に番所を設置したころの松前藩の対蝦夷政策は、なるべく干渉せず治めやすいことをその主眼としていた。
すなわち前にも記したように、従来から和人地に居住しているアイヌ人は別として、和人は蝦夷地へ、アイヌ人は和人地へ居住してはいけないと定めていた。しかし当下海岸地方は、室町時代から京・大阪に知られた昆布の名産地であり、昆布をはじめとする海産物を求めた和人達は、なんとかこれらの地に進出しようとしており、またこの地方は極く和人地に近いため、居住のアイヌ人も和人の生活影響を受けやすく同化されやすかったようである。最初は季節労働漁夫として入り込んだ者達も、やがては定住するようになり、亀田周辺から次第にその勢力を浸透させ、ついには下在(下海岸・茅部海岸)の実支配権を奪いとるようになったらしい。