寛政十二年(一八〇〇)の『鈴木周介アツケシ出張日記』によれば次のように記されている。
○志壁 御用宿當所支配人小五郎
○丑尻村 支配人久右衛門
○小薩部村 御用宿 支配人源次郎
○椴法花村 番人 武左衛門
○根田内村 番人 弥右衛門
○尻消内 御用宿 支配人官兵衛
○釜歌村 支配人伴兵衛
○尾安村 支配人勧右衛門
○湯野村 支配人佐平治
この記録から当時の箱館六箇場所には、会所に(御用宿)支配人がおり、その地域の行政の中心となっていたことがわかるし、また椴法華と根田内には、番人が在勤しているが、当時の椴法華と根田内椴法華と尾札部間は陸路が不便なため(椴法華・尾札部間陸路なし)舟渡があり、このため通行屋が設置されていたようで、番人というのはこの通行屋の管理人兼村役的な仕事をしていたものと推察される。
なお寛政十二年(一八〇〇)以前は、椴法華は蝦夷地内の尾札部場所の集落として存在して来たが、この年から山越内が和人地と蝦夷地との境界となり、椴法華は和人地内村並の尾札部村の支郷椴法華村ということになったのである。
尾札部が村並となってからの、椴法華村では、百姓惣代と村役が置かれるようになったらしく、文政二年(一八一九)の書類には、百姓惣代、六兵衛、村役、忠治の名がある。