慶応三、觸書留(北海道大学蔵)によれば、
歩兵頭古屋作左衛門森村を本陣といたし川汲より山越内まで海崖筋村々並峠下江兵隊出張いたしをおり候に付非常其外臨時御用向等同人より申付候節者聊無二差支一取斗可レ申候且又兵隊之内心得違之者有之若右村ニおゐて民家へ對し不法之取業およひ候願或は押借其外金策ク間敷儀いたし候を無用指揮置森村本陣へ可申立候此旨小前末々まて不洩様可二觸知一もの也。
亀田御役所
己二月廿九日 亀田村ゟ山越内村迄
この触書によって榎本軍は、亀田御役所(五稜郭旧奉行所)から各村役人にお触れを出し、実質的に村々を支配していたことが知られる。榎本軍が道南一帯を治めていた明治二年二月末頃には、川汲から森、山越内に至る海岸線及び峠下付近以北の村々は、森村の本陣を仮の役所としていたようであり、また箱館周辺の村々は亀田役所が行政の中心となっていたものと考えられる。また次に上げる触書からも榎本軍の御役所が、単に村々に用向をいいつけるだけでなく、海産物の密売取締り、御役銀(税)の制度を採用し産物会所まで設置していることがわかる。榎本政権が短期間にこれだけの政策をとったのは、弱い経済面を充実させるためにとられた対策であったものと考えられる。
慶応三、觸書留(北海道大学蔵)
当嶋出産之煎海獵干鮑之義者全國ゟ違ひ品位宣敷別而外國ニ而懇望者素ゟ之事ニ而先忘長崎俵物を唱へ外賣買御差出ニ〓へと近年外國人の入込当所ニ而賣別〓得共自然土地繁栄可相成義と格別之御宥免を以勝手賣買御差免ニ相成何斗も難有相心得隠者等ハ波而無之筈之処聊之御役銀を厭ひ書上外之密賣等致し〓ものも有之哉ニ相聞其上賣品目当も無之外國人江約定之ニ前金も請取品不二相渡一〓ニ付終ニ者混雑を生し及訴訟〓族も有之不将之至リ〓、依レ之右品々取扱所取立御配締者勿論商人共難渋不致様能法相立〓間当嶋出産之ゟ其外内地ゟ積来〓分共明歳賣買之度々産物會所江可二罷出一而得差図若密商等以至し候もの於レ有レ之者賣人買人共急度可レ申もの也。
箱館本陣 会計書
(この触書に日時が記されていないが、前後に出された触書から考え、明治二年二月から五月の間のものと推定される。
明治元年10月觸書
明治2年2月29日觸書