主要道路の開削

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 幕府は蝦夷地の再直轄にあたり警備と開拓に特に力を注ぎ、移住民の奥地への進出を奨励し、防衛・開拓政策上、重要な道路の開削を蝦夷地経営の急務とした。
 前幕府時代においてはところどころ開削し、海岸沿いに人馬の通行可能であった所も一部存在したが、内陸交通路は極めて不備であり、旅人や物資輸送にとって非常に不便なものであった。そこで箱館奉行堀利〓は理想的な道路の開削計画として、箱館から鷲木・長万部虻田を経て、勇拂と石狩川を結び、更に天塩川上流・枝幸・網走の内陸に至る主要街道を建設し、これに従来からあった東西の海岸道路を連結し、四、五里ごとに宿駅を設置しようとした。
 しかしこれは理想計画であり、予算上の理由もあって、実現はむずかしい状態であった。そこで箱館奉行は各地の場所請負人に着目し、道路開削に当たらせることにした。なぜならば、当時蝦夷地における場所請負人は、好漁に恵まれ資力も豊かであり、道路建設に協力的であったからである。
 このようにして開削又は修理された道路には次のようなものがある。
   (区間)   (完成)  (工事)
長万部-磯谷間安政三年 開削
○黒松内-歌棄間  仝   仝
○磯谷-岩内間   仝   仝
○岩内-余市間   仝  開削・修理
○余市-小樽間   仝  開削
熊石-久遠間 安政四年 開削
○厚沢部-市渡間安政五年 開削
○藤山-軍川間 安政三年 開削