椴法華・尾札部の道

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 椴法華尾札部間には、後幕領時代に開かれたと推定される人間のやっと通行出来る道が存在していたが、明治初年には非常に荒廃し危険なため、道路としての機能を果せないような状態となっていた。このため明治十一年十一月から尾札部椴法華間が修理されることになったのであるが、この工事について明治十一年十二月十四日付の『函館新聞』は次のように記している。
   渡島茅部尾札部支木直より同古部を経て椴法華村に出る海岸三里ほどの路は山岳海岸にそびえて僅かに山下に一條の往来を通し其険云ん方なく殊に冬時に山上より落掛る崩雪の為め往々通行人をして鬼籍(ママ)に上らしむる等の事ありて諸人一般之を苦慮せしに今度川汲村の岩花与兵衛ら発起にて新道を開さくせんことを目論見是までの山下の通路を廃し、山腰に沿て大凡(おおよそ)二里半ほどの新路を通せんことを其筋へ出願せしに其筋にても疾(とく)より此に苦慮せられし折りなれば早速聞届けられしうえ猶三百円の金円を下渡され営繕係より高橋俊英氏を遣いされしかば弥(いよい)よ開路に着手となりて右岩花与兵衛に首唱、則ち建築周旋方と成り十八大区戸長菊地中兵衛、副戸長飯田東一郎及び近村々用掛り其他有志の輩等にて右経費の金円を寄附せし事凡(およ)そ百六十円餘に及びし由因(よっ)て他の有志中如し金円を寄附せんとならば函館は汐留町百番地佐々門市五郎方、十八大区に戸井村副戸長飯田東一郎方まで申入あるべしの事なり
 なおこの時の工事について「開拓使事業報告二」(要約)によれば、
  年月    明治十一年十一月業起
  長さ    百七十八町三十間
  経費(官) 二百五十六円四銭一厘
  経費(民) 二百九円七十二銭
  計    四百六十五円七十六銭一厘と
と記されている。
 改修工事が完成されたのは、明治十三年五月であり、この道路が現在の椴法華-古部間の山道の基になったものである。(現在はほとんど使用されず)なお明治十三年ごろの戸井から臼尻村に至る道路の様子について『開拓使事業報告三』は次のように記している。
 
   戸井村ヨリ尻岸内二里十四町餘内二里山道甚嶮ヲナス尻岸内村ヨリ椴法華村ニ至ル四里弱山道稍嶮難椴法華村ヨリ古部木直ノ小村落ヲ経テ尾札部村ニ至ル五里弱〓巌崎嶇僅ニ獣蹄ヲ通スルノミ行旅多ク、海路ヲ取ル其海里六里餘、明治十三年修路後陸行亦多ク尾札部ヨリ臼尻村ニ至ル二里餘海汀ニ〓フ。

明治13年椴法華尾札部間改修工事完成図