北辺警備の強化が叫ばれ寛政十一年(一七九七)から東蝦夷地は幕府の直轄地となり、漁業・商業を官営とし、蝦夷地御用係にその事業を行わせることにした。その結果、北辺警備上の理由や直捌きのための物資や蝦夷地出産物を運送するため、本州・蝦夷地間を連絡する船舶の増強が必要となった。このため幕府は各地で官船を造り、これでも不足の分は商人所有の船を借り上げ、貨物の輸送に当たらせるようになり、この結果、箱館を中心とする東蝦夷地で海運は急速に発展しつつあった。
文化元年(一八〇四)ごろには五百石から千五百石積みぐらいの木造官船が四十六艘になり、これに民間の借上船があり、更に蝦夷地から本州諸港へ海産物を直送する船などがあり、前時代に比べ急速に増加していることが知られる。(前松前藩時代六箇場所の鱈以外は本州諸港へ直送を許可されていなかったが、幕府直轄後は、塩鮭・塩鱒・魚油・搾粕等も直送を認められるようになった。)
このように津軽海峡を往来する船は増加したが、これらの船は木造船で造船技術もあまり進んでいなかったため、船体が弱く又天気予報などがない当時に在っては、ほとんどが船頭の「勘」に頼る航海であった。このため海上航行はいつも危険が付きものであり、遭難・行方不明になる船も非常に多かった。
本州・蝦夷地間の航路は前松前藩時代には主として三厩・松前間の航路がとられていたが、享和三年(一八〇三)ごろから箱館・大澗又は箱館・佐井の航路が利用されるようになった。帆船で津軽海峡を航海することは季節や天候により、潮・風・霧などの条件は刻々と変化し、三つの大きな潮の流れをうまく操船することは容易なものではなかった。
やがて文化十年(一八一三)になり東蝦夷地の直捌き制が幕府により廃止され、これに伴って官営の海運は中止されることになり、本州・蝦夷地間の航路は民間の手にゆだねられることになった。
しかし前時代のような海運の活発な姿は見られなかった。すなわち後松前藩時代になってからの極端な東蝦夷地の漁業不振、北辺警備に対する官用の減少、加えて箱館の高田屋の没落等があり、蝦夷地の海運は全く不振となってしまったのである。