箱館港と本州との交易は前にも記したように、この時代になっても東廻り航路が西廻り航路より多かったが、前掲の『ペリー提督日本遠征記』は、当時の箱館港における移出入物資と海運について次のように記している。
箱館及びその附近の住民は主として商業と漁業によって生計を維持し、農業に對しては當然殆ど注意を拂はない。彼等は蝦夷島の奥地・松前・その他多数の町や村と大きな取引を行ってゐる。それらの土地へは、箱館と日本・四國・九州等の沿岸積み出し港との間に行はれてゐる活発な通商によって、種々な日本の産物が供給される。この海運業に従事している船舶は箱館から乾魚・鹽魚・精製された海草・木炭・鹿の角・木材その他蝦夷の産物をもって行って、米・砂糖・茶・色々の穀物・甘薯・煙草・木綿・絹・磁器・漆器・刃物類・その他必要なるものを何でももって歸る。提督が滞在してゐた短期間中に、百艘以上の日本船が、同帝國南部の諸港に向って出帆したのであり、又その船は全部、殆ど海産物だけから成る荷を積んで行った。西海岸が比較的荒れないし、安全な碇泊地も比較的多いので、一般に西海岸に沿うて航行する。これ等の船は皆、吾々の計量方法によると百噸にあたる位の大體同じ積荷量を有し、その構造も艤装も用具も正確に同じである。これらの船一千艘以上が同時に箱館港内に碇泊してゐるのを見ることも屢々である。この港と右のような取引が行はれる主なる地は松前の南に横たはる佐渡、江戸・越後・長崎又は下關及び大阪・尾張等である。
弁才船の図 「ペリー遠征記」さし絵より